梗弥様
趙雲は猫族に友好的で、ままに暇を見つけては蒼野を訪れる。
一応恋人という関係に在る○○を真っ先に訪ねてくれるのだが、すぐに劉備や関羽達に誘われて出かけてしまうのが常だった。
気の弱い○○よりも社交的で人に好かれやすい関羽の方が趙雲と仲が良かった。
関羽は○○と違って曹操に連れられて幽州を出て行った後、人間達の乱世に巻き込まれた。趙雲とも、その間に出会ったのだというから、それも当然だ。
対して○○は酷い人見知り。昔から家に引きこもってばかりで、関羽と仲良くなってようやっと外に出るようになったのだった。
それもあって幽州から右北平へ行く道程の中、隊列の後ろで一人歩いていたのを趙雲が気遣って話しかけてくれたのが最初。彼女が出来たのは短い相槌、或いは何の脈絡も無い謝罪くらいだった。それでも彼は右北平が見えてくるまで○○と会話をしようと努めた。
そんな○○の何が気に入って交際を申し出てくれたのか、今でも不思議で不安だった。
趙雲という男性に不満は何一つ無い。
ただ、まだ自分は彼を異性として好きにはなれていない。交際して欲しいと言われた時にも、正直にそれを伝えた。
それなのにどうして恋人になっているのか。それは趙雲がそれでも構わないと、交際するうちに好きにさせると珍しく熱を込めて言い放ったからだった。
半ば流されるように承諾した○○だけれど、何をして良いやら分からず趙雲のしたいようにさせるだけ。
これではいつか愛想を尽かされるだろうと、関羽達と○○の家を後にする彼を見送る度に思う。その時にいつも感じる胸を締め付けるモノの存在に疑問を抱きながら。
別れた方が良いのかもしれない。
そう思うようになったのは最近のこと。
趙雲は多分、○○に飽きている。
○○相手だと楽しくないとは、猫族の誰からも言われたこと。びくびくして満足にものを言えなくて、関羽の後ろで置物になる彼女のことなど、誰もが面倒だと思っていた。
だから、彼もきっと面倒になっているのだ。
けれども自分で交際を申し込んだ手前別れると言い出せないのだとしたら。
それなら○○から言ってやれば良い。
だって○○はまだ、趙雲のことが好きではないのだから。
決意した彼女のもとに、不意に趙雲が一つの誘いを持ってくる。
『七日後になるのだが、右北平の城下を案内したいんだ』
これはきっかけだ。
好機と呼ぶのは間違いかもしれないが、別れを告げる絶好の機会であった。
そう思ったからこそ快く承諾したのだけれども。
「すまない。○○」
「え、あ、別に……すみません」
深々と頭を下げる趙雲に、○○は癖になってしまった無意味な謝罪を繰り返す。
趙雲は今日の約束について、急な用事が出来たと断りを入れてきたのであった。
迎えに来るという約束だったのだからわざわざ来なくても良かったのに、本当に律儀な男だ。
「あの、すみません。私なら……ほ、ほんと大丈夫なので……すみません」
「この埋め合わせは近いうちに、必ず」
「えぁ、すみません……」
そこまで気遣わなくても良いのに。
心の中でそう言いつつも、口には出せず陳謝する。
それが収まると、彼は足早に○○の家を後にした。急いでいるようだった。
彼を見送った○○は、引き戸を閉めて長々と嘆息し顔を歪めた。
胸中に滲み出た苦々しい思いは、別れを告げるきっかけを失ったことに対するものではなかった。
残念がっている心の奥底に、向けたものである。
‡‡‡
翌日。
母に頼まれて畑で収穫していたところ、張飛に物凄い剣幕で話しかけられ悲鳴を上げた。脇に置いていた収穫した野菜の上に倒れ込み、葉に右腕の内側を浅く斬られてしまった。
「いった……」
「あ、わ、悪ぃ……つい」
腕を押さえながら体勢を戻すと、蘇双が○○へと手を伸ばした。
「大丈夫? ――――って、傷が出来ちゃったね」
腕から流れる血に、蘇双の顔が歪む。
○○は首を左右に振って謝罪した。
「……ごめんなさい。大丈夫だから」
「いや、そんな悪いのはオレの方で……」
「ごめんなさい。私、その、……野菜、洗うから」
やっとのことそう言って野菜を掻き集めて抱き締めるように抱え立ち上がると、蘇双が張飛をぶん殴った。
「すっかり怖がってるじゃないか。馬鹿」
「悪かったってば……」
この場を移動したいのに目の前に張飛と蘇双が立っている為に足が思うように前に出てくれなかった。
俯いて下唇を噛み閉めていると、張飛が今度は声を穏やかにして問いかけた。
「なあ、昨日姉貴が趙雲と出かけてたんだけど、何か知らねえ?」
「……え?」
顔を上げ、張飛と目が合ってすぐに視線を逸らす。頭の中で彼の言葉を繰り返した。
「劉備様には右北平に行くって言ってたらしいんだけどね。趙雲は○○と付き合ってるって知ってるくせに、この馬鹿、全然聞かなくて」
「すみません。……あの、私、知らないです。すみません」
昨日、右北平なんて、約束そのままじゃないか。
――――すとん。
何かが胸に落ちた。
同時に、納得を得る。そっか。そうだったのか。私じゃなくて関羽と行ったのか。
そりゃそうか。
関羽の方が私の何百倍も可愛い。何百倍も人付き合いが上手い。
そっか、そっか。
やっぱり別れた方が良いんだ。
そこからどうしたのか、覚えていない。
‡‡‡
気付けば○○は村近くの川で野菜を洗っていた。
はっとして取り落とした野菜はそのまま流れ、岩にぶつかっては下っていく。
一言勿体ないと呟いて、それを見送る。
収穫した野菜は右手に置かれてあった。左手には洗い終わったそれ。半分は洗っていたようだった。
……どうして、こんな風になったんだろう。
張飛の言葉がきっかけだとは分かるが、何故それで自分がこんなことになっていたのか、その原因が皆目見当も付かない。
つきり、つきり。
「……痛い」
腕? ……洗ってなかったみたいで泥まみれだ。けれど違う。痛いけど何となく違う。
じゃあ何処だろうか。
おかしいな、他に怪我をしている部分は無い筈なのに。
痛いのは、何処だろう。
……ぽたり、と。
すぐ下の砂利に水滴が落ちた。
それは○○の頬を伝ったもので。
泣いていると自覚した途端全身が痙攣し始めた。
ますます分からない。
病気をした覚えも無いのに、不可思議な症状が現れている。
咄嗟に額に手をやるも少し熱いくらいの体温を感じただけだった。
「……さっさと帰って休もう」
そう決めて○○は手早く野菜を洗う。急いでも洗い残しは決して見逃さなかった。
終わる頃にはあの原因不明の涙も止まっていた。胸の痛みも、嘘だったかのように感じられなくなった。
それに安堵し、野菜を抱えて村に戻ると、張飛の泣きの入った声を近くに聞いた。関羽を呼んでいる。
丁度その場を通りかかったようで、首を巡らせた直後、○○はほぼ反射的に家屋の影に隠れた。
趙雲が、いた。
関羽と並んで、張飛を宥めていた。
その二人は端から見ても似合う見目で、器で。
何だ、あっちが良いじゃないか。
思った瞬間、痛みがぶり返した。
痛いのは――――胸だ。
肺の中に煙が立ちこめているみたいにもやもやするのに、突き刺すような鋭い痛みを感じる。何故?
ぎゅ、と痛みを誤魔化したくて野菜を強く抱き締める。より痛くなっただけだった。
おかしいじゃないか。
私は、彼のことは好きじゃないのに。
好きじゃ、ないのに――――。
……。
……。
本当に、そうだろうか。
誰かが呟いた。
本当に好きではないのだろうか?
じゃあどうしてもやもやするのだろうか。
どうして胸が痛いのだろうか。
気付かないフリをしているだけではないの?
「……」
○○は唇を噛み締めた。
この時、その誰かの呟きを否定する勇気と覚悟を、彼女は失っていた。
‡‡‡
好きなのだと、心の中で認めると片隅で何かがはまったような気がした。在るべき物が在るべき場所に収まったような安堵に似た感覚。
野菜を母親に託すと腕の傷に驚かれた。手当は自分で出来るからとやんわりと拒んで部屋に閉じこもる。
傷の手当てもぞんざいに寝台で丸くなった。
気付かなかったフリをしたんじゃない。本当に気付かなかったのだ。そんなことになると思わなかったから、有り得ないと決めつけていた。
だけど、もう遅すぎる。
考えれば考える程悪い方向に思考は傾いた。段々とそれが正しいことのように思えて、○○自身の理性では止められなかった。
眠ってしまおう。早く眠って落ち着けば、
『○○ー、趙雲さんがいらっしゃったわよ』
「……っ!?」
跳ね起きた。どうして、彼がここに。
扉を開けて母親に確認を取ろうとすると、すぐそこに趙雲がいて小さな悲鳴が漏れてしまった。反射的に扉を閉めようとしたのを呼び止められて趙雲が止める。
「……すみません」
「いや、こちらこそ驚かせてしまってすまなかった。少し俺に時間をくれないか?」
一瞬迷って、こくりと頷く。
すると安堵したように彼は部屋に入ってきた。
それから○○の手を大事そうに取ってその上に何かを載せた。
瞠目。
首飾りだ。見たことも無い煌びやかな装飾品。
見上げると彼は微笑んで、「貰って欲しい」と。
「貰う……って、そんな、こんな高価な物……!」
「気に入らないか?」
趙雲は眦を下げた。
「い、いえ……でも」
「昨日、関羽に頼んで選んでもらったんだ。だから間違いは無いと思うのだが……」
「……昨日?」
昨日って、確か約束の……。
趙雲はそこで頭を下げた。
「すまなかった。約束を反故にしておきながら、関羽と一緒にお前に似合う装飾品を選んで貰ったんだ。本当は、その前日の筈だったんだが、俺に用事が出来てしまってな。どうしても昨日でなくてはならなかったんだ。迷惑をかけてしまってすまなかった」
○○は目を剥いた。
「えと、ど、どうして、私に……」
「恋人に物を贈るのは当然だろう?」
「こい、びと……ほんとに、私に?」
確かめるように、趙雲に問いかける。
彼は、当然だと言わんばかりに大きく頷いた。
信じられない。
○○の目から大粒の涙が浮かび、落ちた。
「○○?」
「い、え。何でも……っ」
首飾りを抱き締め、○○は啜り泣く。
趙雲は困惑しながら、○○の身体をそっと抱き寄せる。背中を撫でてくれた。
馬鹿馬鹿しい程に単純で、こんな自分が嫌になる。
都合が良い自分の中ではもう、それまでの否定的な感情は払拭されていた。こんなにも自分は単純で簡単な女だったのかと、ほとほと呆れかえる。
気持ち悪い。女って、こんな風なのだろうか。違うんじゃないの?
なんて単純な娘なんだろう。
それを知られたくないと思うのは、趙雲が好きだと認めたからに他ならなかった。
○○の涙はなかなか止まらない。
止めて、趙雲に謝辞を言わなければならないのに、涙は絶えず流れ続けた。
それは後悔も、懺悔も、感謝も、それまでの○○の中にあった色んな物が混ざり合って流れていた。
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