悠様
昔から、○○は何処か達観した、年齢以上の落ち着きを見せていた。
わたしとそう変わらない筈なのに成熟した女性のような、猫族の壮年の女性達のような頼れる雰囲気を持っていた。
それに、ずっと一緒にいて肌で感じていたのだけれど、彼女はままに別の場所を見ていることがある。焦点の定まらない目が何を捉えているのか分からないし、そのまま観察していると、ままに聞いたことも無い言葉で歌を口ずさむ。……昔、ようやっと聞き取れたのは『かんちゅりぃろぅど』『じゅうざぷれ』だけ。発音が特殊で分かりにくかったから、それも正しいものなのかも分からない。
一度だけ、その言葉は何処で覚えたのって、訪ねたことがある。
だけど○○はそれには答えてくれなくて。
帰ってきたのはとても淋しそうな笑みだけだった。それも、瞬き一つで見逃してしまいそうな一瞬。
彼女の笑みにはわたし達も知らないような、深い淋しさと悲しみがあったように思う。きっと、誰にもそれは癒せないんだろうって、そんな気すらする。
○○は猫族だ。生まれながらに純粋な猫族。
けれど、○○ではない別の誰かがその笑みに覗いているような気がして、隔絶されている錯覚に襲われてしまう。
普段の快活な彼女は、とても付き合いやすいのに。
この時ばかりはとても……触れにくい。
劉備とわたしを結ばせようとする時の目も、それによく似ていた。
劉備が好きなのは、わたしじゃない。○○だ。
多分○○はそれを分かっている。分かっている上で劉備の想いを拒んでいる。
まるで、在るべき姿に組み立てているかのようだ。
○○はとても良い子。
けれどもわたしは時々、彼女のことが分からなくなる。
‡‡‡
劉備を伴って○○の家を訪れる。ここ数日彼女は風邪で寝込んでいた。
悪化する傾向は見られないけれど、油断は出来ない状態だった。
風邪が移るといけないからと○○のお母さんに見舞いを止められていたかけれど、もうだいぶ熱は下がったし治りかけのようだからと、短時間を条件に見舞いを許してもらった。
関羽は部屋の扉を控えめに、音を立てぬように開き、中の様子を見る。
○○は寝台で静かに眠っていた。
劉備に静かにするように言って中に入ると、劉備が真っ先に寝台に駆け寄る。○○の顔を覗き込み、関羽を振り返った。
「顔、赤くないよ」
「熱が下がったって言っていたものね。すぐにまた遊べるようになるかもしれないわね」
「うん」
安心したように笑う劉備の頭を撫でて、関羽は○○の様子を見下ろした。
○○は呼吸も穏やかだ。顔色も悪くないし、あと数日も経てばまた快活な笑顔を見せてくれるだろう。
良かったわね、と声をかけると劉備は大きく頷いた。
「ぼく、ここに残っちゃ駄目かな」
「○○のお母さんに言われたでしょう? それにわたし達がいると、起きた○○は気を遣ってしまうわ。また悪化させたくはないでしょう?」
諭せば、劉備は悄然と俯く。心配でたまらない気持ちは分かるが、○○の母親に駄目だと言われていながら残っても迷惑になるし、○○の性格を考えるとこちらに遠慮して空元気を見せるに違いない。それでまた風邪がぶり返してしまうかもしれない。
○○の為だと付け加えると、劉備は沈黙する。
――――と、不意に。
○○が身動ぎした。
「ん……」
「○○!」
「あ、こら劉備。声を大きくしちゃ駄目よ」
○○の身体を起こそうとする劉備を引き留め、口を塞ぐ。小声で諫めた。
彼女はゆっくり瞼を押し上げて、関羽と劉備を捉えた。寝ぼけ眼は焦点を定めていない。
起き上がろうとする○○に関羽は慌てて劉備を離して背中を支えてやった。
「大丈夫? ○○」
「……」
○○は関羽を見た。不思議そうに緩く瞬きして首を傾ける。
「……『○○』? 何を言ってるの――――」
愛美(まなみ)。
関羽は目を丸くした。
「え、ま、まなみ?」
「私はそんな名前じゃないよ。やだな……また新しい徒名でも付けたの? そう言うのは、ちゃんと私の側で決めてくんないと困るって……。ああ、そうだ。今度数学の小テストがあったんだった。愛美のノート見せてよ。愛美のまとめ方って物凄く分かりやすいから……」
「ちょ、ちょっと○○? 何言ってるのっ?」
夢を見ているのか、訳の分からないことを言う。関羽を別の誰か――――しかも、そんな名前の者は猫族にはいない――――と間違え、しっかりとした語気とは裏腹に、双眸はやはり虚ろだった。
混乱のあまり少しばかり荒く揺すると、○○の身体が傾ぐ。抱き留めると健やかな寝息が聞こえてきた。
「○○……あなた、今のって、」
何?
問いかけても、彼女に応えは無い。
劉備を振り返るも、彼もまた○○の言動に、関羽以上に困惑していた。金の瞳が不安に揺れている。
「関羽……」
「……劉備」
○○を寝かせ、寝顔を窺う。
彼女はここにいる。目の前にいる。
その筈なのに……どうしてだろう。
とてつもなく遠くの場所にいるような、そんな気がした。
‡‡‡
夜中、彼女は家を抜け出した。
昼間に懐かしい夢を見た。最近になってとても恋しくなってきた、故郷の思い出。
いっそ憶えていなければ楽だったろう。何も知らずに生まれ変わっていればましだった。
それか、元の世界で死んでいれば諦めもつこうものだ。
中途半端な状態でこちらに転生してしまったからこそ恋しさも募る。
楽観的にいられたのは最初だけだ。
夢でないことなどとうの昔に分かってしまった。これは現実、覆しようの無い現実なのだ。
今あるのは無数の針みたいな苛立ちと、胸に冷たい木枯らしが吹き荒んでいるような、そんな空しさ。
誰も、元の彼女を知る者はいない。
記憶があるのに、共有する者は誰一人としていないのだ。
それに名前も、最初なら受け入れられていた。だが今では苦痛でしかない。
本当の名前を叫びたい。
日本語が見たい。
俗語を喋りたい。
友達に会いたい。
家族に会いたい。
……帰りたい。
望郷は誰しもが持ち得る感情だ。
けれども、《○○》としての故郷にそんな感情は浮かばない。
それは非情とも呼べるのだろう。
だが、このままずっとこの世界にいるのだとすれば、彼女は神を恨むだろう。
それ程に、元の世界が恋しくて仕方がなかった。
劉備と関羽を結ぶことは、彼女にとってはもう大した意味を持たなくなっていた。
それよりも、元の世界へ戻る方法を考えることを優先した。
一生を終えるまでこの世界に留まることを考えるだけで、気が狂いそうだった。
彼女は、自分が思う以上に弱かった。自分が思う以上に当然だった元の世界を愛していた。そんな大事なことに、今更気が付くなんて。
もう気楽にはいられなかった。
村から少し離れた森を歩きながら、元の世界で良く友達とカラオケで歌っていた洋楽を口ずさむ。
友達とふざけて適当に作ったステップを踏みながら歌う。
……帰りたい。
帰りたい。
帰りたい。
歌えば歌う程帰郷への願望は強くなる。
それでも、元の世界の記憶を繋ぎ止めておくように、歌い続ける。
まだ覚えている。
友達と一緒にクレープを食べに行くという約束。
しなければならなかった課題。
分からなかった数学の問題。
美味しくて人気のあった購買の味噌あんパン。
通学路にあった駄菓子屋のお婆さんは物凄く話が長い上に耳が遠かった。
まだ、まだ、覚えている。沢山の思い出。楽しかったこの気持ち――――……。
帰りたい。
歌を終えてまた歌おうとすると、後ろで枯れ葉を踏み締めるような音がした。
ゆっくりと振り返って、彼女は目を細める。会釈した。
真っ白な彼は彼女に切なげに微笑みかけると、そうっと歩み寄った。
「……○○。それは君の元の世界の歌なのかい?」
「……」
彼女は緩く瞬きして天を仰いだ。
覆い尽くす程に広がった暗雲にぽっかりと空いた穴。そこには偃月が寂しげに浮かんでいた。
それを見つめ、彼女はほうと吐息を漏らした。
「ああ、そっか。今宵は偃月なのか……忘れてたな」
「君は……」
手を伸ばそうとして、躊躇うように降ろした。
「僕は君が好きだよ」
彼女は彼を見、微笑む。
「それはとても嬉しいことだね。……でも、私はあなたを好きになることは無いわ。これから先もずっと。死ぬまでずっと、元の世界に帰るまでずっと」
私は違う世界の人間だから。
私は元の世界を愛しているから。
決然と言い放ち、微笑む彼女は、泣いているようにも見えた。
けれどもそれは自分達にどうこうできるものではなく。
彼はぐにゃりと顔を歪めた。
……近付けない。
彼の足は、縫いつけられたようにその場から動けなかった。
遠い。
遠すぎる。
彼女と彼の距離は、あまりにも遠すぎた。
こんな筈じゃあなかったのに。
それは、どちらの想いであったのか。
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