リカ様
この男はとても愚かだ。
執着した玩具を、意地を張って手放そうとする子供のような顔をして言うのだから。
本当は手放したくないくせに、あたかもそれが良いことだからと言わんばかりに――――否、自分自身に言い聞かせてあたしを元の世界に戻そうとする。
君は、幼いあたしをあたしの世界から無理矢理連れ出したくせに、またあたしの意思を無視して勝手なことをするのだね。
君の世界に引きずり込んだのは君。
自分の為だけに、泣き叫ぶあたしの一族の証を千切り取ったのは君。
雁字搦(がんじがら)めにあたしを絆したのも、君だ。
全て君が君の孤独を埋めるためだけに、勝手にしたことじゃないか。
最低だね。
本当に愚かだね。
だけども――――。
あたしは弱くて幼稚な君が愛おしいよ。
‡‡‡
短剣を手にして、曹操の華奢な身体に跨(また)がる。
曹操は驚愕をありありと浮かべて、あたしを見上げてくる。
そりゃあそうだ。
あたしは、本当なら曹操に言われたことに従って、洛陽の外にぞんざいにあてがわれた猫族の陣屋に向かっていた筈だった。
だが、あたしは引き返して、こうして曹操を襲っている。
「○○。何をする。十三支の陣屋に向かったのではなかったのか」
「ねえ、曹操。君があたしから奪ったのは、沢山ある」
居場所も、その一つ。
彼に囁きかけるように、優しく、優しく、あたしは語る。
誰もあたしに気付かなかった。
誰一人としてあたしに気付かなかった。
妹である関羽ですら、姉のあたしに気付かなかった。
育ててくれた世平おじさんですら、あたしに気付かなかった。
……そう、あたしは猫族ではなくなっていたのだ。
誰からも覚えられていない。誰もあたしを関羽の姉だと分かってくれない。確かに、あたし達は似ていないけれど、それでもあたしの扱いは十三支に対するそれだ。察したって良いだろうに、誰も、誰もあたしに気付かなかった。それどころかあたしを仇のように鋭い眼差しで睨んできたのだ。関羽も、世平おじさんも。
猫族にはもう、あたしの居場所なんて無かった。
幼少の砌(みぎり)に村近くで遭遇した少年に連れ去られたその時に、あたしは猫族でなくなっていた。
「そうしたのは君だ。なのに君は今になってあたしを猫族に帰そうとする。あたしは物なのかい? おかしいな、物は交尾なんて出来ないだろう。子供も作れないだろう。君はどうしてあたしを連れ出したのか、それはあたしが安易に混血であることを話した所為」
曹操もまた、混血。
悲惨な過去を背負い、己の身体に流れる二つの血を憎む哀れで馬鹿な男。
それでいて、混血という同胞を探し求めた孤独に苦しむ男。
だからあたしも彼が放っておけないでいた。関羽という妹がいたからだろうか、泣き暮らしていたのもほんの一月。曹操の影を見た時、何となく、関羽のようにあたしが側にいてやった方が良いのかもしれないと思った。
それが所謂(いわゆる)惹かれていると言うことのだと、幼いあたしは気付かなかった。
ずっとずっと、曹操と一緒にいた。曹操の冷たい孤独を癒す為だけに、あたしは彼の側にあった。
それが、今。
彼はあたしを切り捨てようとしている。
許せると思う?
「○○……」
「それも、君がくれた名前だ。君が一貫して猫族のもとに戻れと言うのなら、その名は捨てなければならないね。そして、あたしは……君を敵と見なそう」
猫族の敵として、ここで得た知略を尽くして君を壊してしまおう。君があたしから全てを奪い取ったように、君から全てを奪い取ろうじゃないか。
あたしは短剣の刃を曹操の咽仏にあてがった。
反旗を翻す?
いいや、違う。
捨てられた道具が、壊れ始めるだけだ。
あたしにとってそれだけのことを曹操はしようとしている。
「ねえ、曹操。あたしは君を愛しているよ。でも君は違うようだ。それがとても悲しいよ」
「○○。違う、私は……」
「違わない。だって君は、こんなにも簡単に捨ててしまう。君は捨てられる側の気持ちを考えてくれない。酷い人だね」
……ぽたり。
曹操の顔に何かが落ちた。
水だ。
おかしいな。どうして水が落ちるんだろう。水なんてあたしは持っていないのに。髪も濡れていない。鼻水……じゃないね。当然だけど。
緩く瞬きすると、目尻から何かが落ちた。一瞬だけ温かくて、すぐにさっと冷えてしまう軌跡を残して顎まで落ちていくそれは、……ああ、水だ。
何だ、そうか。
水、見つけた。
あたしが泣いているからだ。
悲しい?
うん、悲しいね。
だって曹操に捨てられたら、寂しいじゃないか。
あたしの感情が一方通行だって、悲しいじゃないか。
あたしは君を愛している。
だけど君が愛していないというのなら、あたしにはもう何も残らない。
無責任で最低な人だね、君は。
どうしてあたしは君を憎めなかったんだろう。そうすれば、こんなことにはならなかった。今、あたしはこんなに痛い思いをしなくても良かった。
「君は最低で、愚かで、幼稚で、とても分かり易い。同じ混血の関羽も、君には絶対に靡(なび)かない。忘れ去られたあたしと違って、彼女は猫族だから」
そして絆されてしまったあたしも愚かなんだろう。
あたしは咽の奥でくつくつと嗤って、曹操の上から退いた。
すると、腕を掴まれて強い力で引き寄せられる。
背中には冷たい床の感触。胸には人の柔らかな温もり。
押し倒されたのだと気付くのに、少しだけ時間がかかった。
殺されるのかとよぎった予想を裏切って、曹操はあたしに深々と口付ける。
抵抗することも無く、あたしは唇を薄く開く。ざらざらとした分厚い生き物が入り込んできた。
「んん……ぁっふぅ……」
一度口を放してはまた噛みつくように口付ける。荒々しいというよりももはや暴力に近い。
激情をそのままぶつけてきているようなそれにあたしは目を伏せた。
得るのは恐怖でも困惑でもなかった。
安堵。充足感。
満たされていく。
それで良い。
あたしは、曹操から離れるつもりはない。
そうだ。あたしはこれから先もずっと曹操の傍にいたいのだ。
彼を愛しているから。
彼に何もかも奪われているのだから、それくらい、良いじゃないか。
「ぁ……っそう、そ」
「人が、折角……!」
「んっ」
折角? ……折角?
馬鹿だね。
君がしようとしていたのは善意の皮を被った責任逃れだ。
あたしから全てを奪って、君はこれであたしが喜ぶと思ったのだろうか。
なんて、愚かしいこと。
奪った物は――――君が壊してしまったものはもう返らないと言うのに。
乱暴な手付きで服を脱がされていくのを昂揚した幸福感に浸りながら受け入れ、あたしは咽の奥で笑う。
「……っねえ、曹操。あたしは全てを奪った君を愛している。だからあたしは君を憎んでいない。だから今まで君の傍にいた。あたしは君の勝手に沢山振り回されている。慣れてしまったのだろうね」
声が震えるのは、興奮からだ。
あたしの思うように彼が動くその様に、あたしはとても満足している。
あたしは、曹操の傍にいたい。
ただそれだけ。
「君は、あたしを手放したいの? それとも手放したくないの?」
行為の合間に、あたしは訊ねる。
返答は、口付けだった。
後書き⇒