七万打企画小説 | ナノ
瑠菜様




 君は泣く。

 どうしてと言いながら君は泣く。

 私が大事だったのに、と。



 私は泣く。

 どうしてと言いながら私は泣く。

 君にその資格があるのか、と。



 君がやったことだろう。

 君が望んだことだろう。

 今更何も響かない。

 敵意(やいば)を持って突きつける。




‡‡‡




 ……いつからだろうか。

 この救いようの無い程の色彩に駆けた世界が、本来の色味を取り戻したのは。
 この救いようの無い程に何も無い抜け殻のような私に、価値を見出したのは。
 この救いようの無い程に感動も生じない無機質な日常が、愛しくなったのは。


「○○。どうした」

「……ううん、何でもない」


 城壁の上に腰掛けて地平線に身体を埋めていく太陽を眺めながら、首を左右に振る。
 曹操は振り向かぬ彼女に吐息を漏らし、背後から片手を回し目を覆い隠した。


「目が焼かれてしまう」

「ちかちかします」

「だろうな」


 目を覆ったまま、無理矢理に後ろを向かされ唇を奪われる。離してもう一度合わせると、○○の華奢な身体から力が抜けた。もたれ掛かるように倒れ込むと口付けは更に深くなった。

 異性の唇に陶酔する程の安堵を得られるようになったのは、つい最近のことだった。
 自分が女性であって、男性と恋に落ちるということを知ったのもそれとほぼ同時期である。
 曹操なら――――彼なら、○○を温かく受け入れる。力強く抱き締めてくれる。
 それが、たまらなく嬉しかった。冷めた身体に、彼の温もりはよくよく浸透した。

 名残惜しげに銀糸を引いて離れた曹操は○○の頭を撫でる。
 手の動きにつられて動いた髪の合間から、何かが千切られたような痛々しい瘡蓋(かさぶた)が覗く。それは頭頂の左右に、対称にあった。
 曹操が目を細めてそこに舌を這わせると、○○の細い肩が揺れた。

 そこは元々獣の耳があった場所だ。○○が曹操に無理に頼んで切り落としてもらった。
 敏感な場所であり、今もなお癒えていない場所を舐められて、咎めるように曹操を睨め上げた。

 曹操は小さく笑った。普段お目にかかれない、○○にだけの笑みだ。


「風が冷たくなった。中に戻れ」

「……分かりました」


 憮然と唇を尖らせて身体を反転させる。立ち上がって曹操の手を握った。
 ○○はよく曹操と手を繋ごうとする。曹操の存在を確かめるようにしっかりと握る。
 曹操が自分から離れていかないことは十分に分かっているのに、何が不安なのか、○○自身にも理由は分からなかった。ただ手を握って曹操と歩いていると、とても安堵するのだ。

 曹操の傍に安息がある。

 曹操と共に石畳の階段を下りて彼の私室へと向かう。○○にもあてがわれた部屋があるが、ほとんど曹操のもとで過ごすので、あって無いような物だった。
 ……まあ、十三支というので夏侯惇達には良い顔をされないが、それも戦場でしっかりと武と功を示せば口を噤んでくれる。むしろ変則的で型の無い○○の自由な武技は予測が難しく、夏侯惇にしてみれば一武人として○○は興味の対象であるらしかった。夏侯淵には目の敵(かたき)にされているが、彼もまた○○への闘争心から夏侯惇と共に手合わせを強いてくることも少なくない。
 刺々しいながらも、一応はそれなりに上手くやれている。

 曹操の私室に入ると、夏侯惇が木簡を持って中で待っていた。


「何かあったか」

「は。兵站(へいたん)の件で、少し問題が。対応策についてご意見を願いたく」


 拱手(きょうしゅ)し木簡を差し出す夏侯惇は、○○に気付いていながら無視を決め込む。
 大体はそうだ。○○に用事のある時以外彼の態度は酷く素っ気ない。ただ、来た頃に比べてその『用事のある時』は格段に増えている。一介の武人として認められ始めてはいるのだからと、夏侯惇の態度を○○が気にすることは無くなっていた。

 曹操は木簡を受け取り、ざっと目を通した。
 それから幾つか指示を伝え、急ぎ整えるように命じた。

 夏侯惇は再び拱手し足早に部屋を出る。それまで○○に一瞥もくれなかった。


「忙しそうですね、夏侯惇殿」

「先日、兵站を取り切っていた武官が病で急死したからな。人員を構成し直すまで、夏侯惇に任せてある。後継の候補に上がっていた武官も付けさせたが、急なことで満足な引き継ぎも出来ておらぬ。暫くは、夏侯惇に負担してもらわねばなるまい」

「それは、大変ですね」


 ああ、そう言えば最近は手合わせの回数がぐんと減った気がする。この所為だったのかと頭の中で納得した。
 心配だが、夏侯惇に何を言っても、何をしても、辛辣に拒まれるだろう。武人としてなら上手く付き合えるが、十三支と個人的な付き合いは彼は絶対にしないのだ。

 曹操も、夏侯惇達に関しては何も言わない。こればかりは仕方がないのだから当然だ。

 曹操は閉まった扉から視線を離すと、○○を呼び寄せた。
 寝台に倒れ込んで○○の身体を抱き締める。


「まだ夕餉を終えていないんじゃ……」

「寝るつもりはない」


 ただ、こうしているだけだ。
 甘えるように○○に顔を擦り寄せる。

 ○○は緩く瞬きして、目を伏せる。胸に顔を埋めると腕の力が強くなる。
 苦しい。
 でも……温かくて気持ちが良い。

 曹操は優しい。とても優しい。
 彼の傍でなら猫族と過ごしていた日々とは大違いの、甘く穏やかな毎日を過ごせる。
 彼女の傷ついた心を、曹操の優しさは、彼の傍の穏やかさは、急速に埋め、癒していった。

 ○○はこんなにも心地良い場所を知ってしまった。

 猫族に戻らなければならない、劉備を守らなければならない――――そのような呪詛のような鎖も、自ら壊し放り捨てた。
 そして、大きな幸せを手にした。もう逃さないと、しっかりと抱き締める。


 これを壊そうとする者は、誰であろうと許すつもりはなかった。



‡‡‡




 好きだった。
 大事だった。
 だから守ろうとした。

 今更、遅い。

 私がこうしたのは、あなたじゃない。


「ごめんなさい」


 その謝罪は空虚なものだった。
 顎を逸らし、少女は冷たく少年を見据える。もう一度、虚ろな謝罪を呟く。

 暗黒の意思に染まった少年の胸に深々と突き立てられた短刀を、少女が握る。引き抜く。血を引いた。

 少女は愚かだ。
 少女はかつて、彼を守っていた。自分が彼を守らなければいけないのだと、幼い頃から使命感を持って彼の傍に居続けた。詰られても、拒絶されても、殴られても。
 それでも使命を胸に、彼の傍に居続けた。
――――その根底に少年の悲しい優しさがあることにも気付かずに。

 少年は愚かだ。
 少年は彼女を守ろうとした。凶悪な衝動から彼女を遠ざけたくて、言いたくないことも、やりたくないことも、彼女の為だけにした。そうすることでしか、愛する少女を守れなかった。
――――それが、この様である。

 少女が離れていったことに、己は闇に呑まれ、少女の新たな世界を壊そうとした。
 そして、少女の手で今まさに少年は終わろうとしている。

 少女は仇を見るような目で少年を睨む。
 因果応報。そんな言葉が少年の脳裏をよぎった。
 何が間違っていたのか分からない。
 他にどうすれば良かったのか分からない。

 嗚呼、嗚呼。
 だけど、でも。

 少女の愛する男を殺すべきではなかったのだと、それだけは分かった。

 取り返しの付かないことをしたのだ、自分は。


「私は、私から何もかも奪ったあなたが大嫌い」


 少女は短刀を抜いて少年から離れた。
 少年が手を伸ばすのを、嫌そうにかわす。
 彼女にとって、もう、一番は少年ではない。遙か後方で息絶えた最愛の同胞。
 守るべき少年はもう憎しみの対象でしかなかった。

 少年がべしゃりと血溜まりに伏すと、少女は短刀を落としてきびすを返した。愛した男の遺体へと、走っていく。もう、少年に見向きもしない。

 少年は徐々に薄らいでいく意識の中、その後ろ姿を見送った。
 行かないで、とは言えなかった。
 彼女の名前を小さく呟いて、身体を反転させる。



 淑やかに煌めく偃月が愚かな少年を嘲笑っていた。



































 胸が痛い。
 胸が苦しい。
 目頭が熱い。

 ……いいや、違う。
 ただ、上手く呼吸出来ないからそうなっているだけ。

 そんなことは、有り得ないのよ。


 天を仰げば、淑やかに煌めく偃月が、愚かな少女を嘲笑っている――――……。



後書き⇒


  
 back