七万打企画小説 | ナノ
れっど様




 自分は意外と行動力がある。何をしでかすか分からない。
 兄にそう認識されている為に、部屋に出入りする為の扉は閉じられた。頑丈な錠前も掛けられた。
 けれど、扉だけが入り口という訳ではない。考えようによっては壁に穴が空いていればそのどれもが出入り口と成り得るのだ。

 怪我をしていると、衝撃を受けて萎れていると思い込んでいるのが運の尽き。

 ○○は匕首で窓の格子を器用に外し、ひらりと部屋を飛び出した。



‡‡‡




 ○○は少ない荷物を持って愛馬を走らせた。

 失って困る物は沢山ある。どれだけ自分が恵まれていたかも分かっている。
 けれども、それらを擲(なげう)ってさえ余りが出る程、彼の存在は大きかったのだと、今更ながらに知った。
 今気付いて良かったとも思う。今分からなければ、きっと後に後悔することとなっただろう。

 だから、動くなら今だけだった。
 怖くはない。
 だって、あの時の彼は苦しんでいた。そして今もそれ以上に苦しんでいるだろう。
 少しでも和らげたかった。

 痛む腕の傷は深い。それは暴走した彼に与えられたもの。
 人型の獣になって、彼は破壊の限りを尽くした。
 人を殺し、物を破壊し、それでもなお狂ったように暴れ続けて――――止めに入った○○すら傷つけた。刀よりも残酷に肉を抉り取った深い爪痕を残す脇腹は、完治するまでは長い時間を要する。もう少し深ければ臓器にまで達していた程だ。上下運動の激しい乗馬などすれば傷が開くのは必定である。

 しかし、しかし。
 彼女は自分の身体を休めるよりも、女として、自分を傷つけた少年のもとへ急行することを選んだ。……よしや、これで命を縮めることになっても。


「無理させてごめんね……でも、急いで欲しいの」


 泡を噴いて駆ける愛馬の首を撫で、○○は痛みを堪えながら謝罪した。この子は子馬の頃から○○が世話をした駿馬だ。そんな彼女に無理をさせてしまうことに強い罪悪感を感じるが、どうしても、彼女には急いで欲しかった。彼女なら、兄達の馬も簡単に引き離せてしまうから。
 走る内に空は白み始めていた。朝日ももう少しで遠くの名も知らぬ連山の尾根から顔を出すだろう。
 きっともう自分が抜け出したことになど兄達は気付いているだろう。今まさに馬を走らせているかもしれない。

 彼らが○○の為を思って部屋に閉じ込めたのも分からないでもない。それだけ大事にしてくれているということだ、むしろ有り難いとすら思う。
 されどこればかりは譲れなかった。
 何と言われようと、どんな荒々しい手で連れ戻そうとされても、絶対に猫族に会いに行く。彼の驚異を恐れた帝に命令され、曹操に手放された猫族のもとへ。

 朝日が顔を覗かせた。
 右手からの突き刺すような日光の眩しさを感じながらも、真っ直ぐ、兵士達の話を盗み聞いて知った猫族の向かった方角へ走った。

 そうして……○○は一つの集団を見つける。
 近付くにつれて、大きな荷物を背負った彼らの列に見知った姿を見つけた。

 こちらからも見える距離である為、相手にも気付かれた。数人の男がこちらを指差し、列の真ん中から一人の、○○と年の変わらぬ娘が現れる。その頭には、人ならざる耳がぴんと立っていた。
 猫族だ!


「待って!!」


 感極まって、○○は声を張り上げた。
 近くで馬を停めて下馬しようとするなり熱を持った傷が激痛を訴え、体勢を崩してしまった。
 落馬したところを娘――――関羽が抱き留める。驚きよりも、○○の状態に蒼白になっていた。


「○○!? あなた、重傷を負っていた筈でしょう!?」

「……っ、張飛は?」

「え?」


 ○○は関羽に縋りついて声を絞り出した。


「張飛は何処? あの人は無事でいるの? お願い教えて、関羽!」

「ちょっと、落ち着いて! まずはあなたの手当をしないと――――」

「そんなことはどうでも良いの! 私は、張飛に会いたいのよ。会って、張飛に伝えないといけないことが沢山あって……!」

「待って!! このままじゃあなたが死んでしまうわ。だからまず身体を休ませましょう。丁度近くに洞窟があるって分かって、そこで休むことにしたから。それに、張飛もまだ気を失っているわ」


 気を失っている。
――――生きている。
 それが分かった途端、足から力が抜けた。関羽が支えてくれなければ地面に倒れ込んでいただろう。
 関羽が誰かを呼ぶ声を遠くに聞きながら、限界を超えた○○は重たい瞼を閉じた。



‡‡‡




 目が覚めたのは、洞窟の最奥のようだった。
 草を敷き詰められた場所に寝かされ、包帯も新しい物に換えられている。
 ○○は痛みに耐えながら上体を起こした。全身が熱い。側の焚き火ではなく、傷の所為だ。

 解熱剤は、確か持って来ていた筈だ。最低限の荷物しか持って来ていないが、長い付き合いの治療道具だけは全部揃えていた。
 額に浮かんだ汗を袖で拭って立ち上がり、自分の荷物が何処にあるのか訊ねんと人の姿を捜す。入り口に向かって歩けば、きっと誰かに出会う筈だ。

 だが、洞窟は幾重にも枝分かれしており、どちらが入り口に続く道なのか分からない。
 所々に灯りを置かれているが、それは何処にもあり、下手に曲がってしまうと迷ってしまいそうだ。
 元いた場所に戻った方が良いだろうかと悩み始めた頃、不意に左の道から怒鳴るような声が聞こえた。


「○○!!」

「え? あ――――」


 張飛さん。
 その名を呼ぶ暇すら無く、○○のずっとずっと逢いたかった彼は気色ばんで○○に大股に歩み寄った。


「何やってんだよ、こんなところで!?」

「え、あの、解熱剤があった筈だから、その、私の荷物が何処にあるのか、訊こうと思って……」


 何故怒られているのか分からない○○はしどろもどろになって答える。
 張飛は眦をつり上げて舌打ちした。腰を屈めて彼女の身体を抱き上げた。


「きゃっ!?」


 驚いて張飛の首に手を回した。その時に腹に痛みが走って小さく呻いた。


「ちょ、張飛さん、あの、一人で歩けるから……」

「良いから。怪我人は黙ってろって」


 低い声だ。怒りがありありと浮かび上がり、○○は訳も分からず竦み上がってしまった。身を堅くして、視線を逸らしながら張飛に身を任せる。
 会いたかった張飛が、しっかりと歩いている。それは嬉しいことだけれど、この状況はとても恥ずかしい。異性に抱きかかえられるなんて、兄以外に無かったように思う。小さな頃は憧れはしたがとても恥ずかしい。
 それ程歩いたとは思えないのだが、○○が寝ていた場所までなかなか辿り着かなかった。○○の傷に響かないように張飛がゆっくり歩いているにしても、だ。

 運ばれている間、心臓の動きが激しいし、異様に苦しかった。鼓動が聞こえているかと思うと気が気でなかった。
 ようやっと到着して草の絨毯の上に寝かされると、張飛は側に座る。


「あ、あの、私の荷物は何処に……」

「オレは知らねーよ」

「そう、ですか……困ったわね」


 早く動かせるようにしたいのに。
 寝ながら呟くと、張飛が舌打ちした。


「そんまま寝てりゃ良いだろ」

「そういう訳にはいかないわ。だって、ここにいつまでもいる訳にはいかないでしょう?」

「は……?」


 張飛はぽかんと口を開けたまま○○を凝視した。何を言っているんだこいつ、と目が語っていた。


「……、……まさか、オメー、ついてくる気……とか?」

「ええ。ここで城に帰ったら、絶対に本家に帰されて軟禁状態にされると思うし……私軍医だから役に立てるわ。趙雲殿以外に人間が混ざるのは、やはり駄目かしら」


 そこで張飛は沈黙した。唖然としていた彼は一転して険しい顔をして○○を睨むように強い眼差しで見下ろしている。
 ややあって、震えた声を漏らすのだ。


「……怖く、ねーのかよ」

「張飛さん」


 それが何のことを言っているのか、言われずとも分かった。
 そして、強靱な眼差しの奥で、彼が○○の返答に怯えを抱いているということも。

 されども○○の返答なんて分かり切ったもの。
 ○○は張飛に手を伸ばした。張飛の顔に触れかけて失敗し、力尽きて落ちてしまう。それを張飛がさっと掬い上げるように握った。


「怖くないわ。だって、張飛さんも辛かった筈でしょう」

「けど……」

「この傷は私の自業自得よ。何も考えずに飛び出してしまったのだから。もっとよく考えれば追わなかった傷だわ」


 だからあなたは何も悪くない。
 そう言うと、張飛の引き結んだ唇が小さく震えた。悲しそうな顔をする。彼がそんな顔をする必要は無いのに……。
 微笑んでみせると、張飛は小さく謝罪した。腹に手を伸ばそうとして止めてしまう。代わりに握り締めた手に、もう片方の手を添えた。それを引き寄せて額に押し当てた。


「ごめん、マジで、ごめん」

「だから、あなたは悪くないんだってば」


 上体を起こそうとすれば張飛が支えてくれた。
 礼を言おうとすると、緩やかに抱き寄せられる。
 心臓が跳ね上がった。ひゅ、と呼吸が一瞬だけ止まった。


「ちょ、張飛さん!?」

「……」


 生きてて良かった、と。
 彼は掠れた声で呟いた。

 それに、上昇した熱も、暴れ出した心臓も急激に収まっていく。

 代わりに胸中に生じたのは、驚喜だ。
 張飛が自分を心配してくれたことがとても嬉しかった。

 自らも張飛の背中に躊躇いがちに腕を回すと、力が強くなった。
 身体は熱い。けれど、暖かい。
 満たされていく。
 眠ってしまいそうなくらいに心地良い感触に、改めて己の感情を自覚する。嗚呼……やっぱり私は張飛さんのことが好きなのだわ。

 ……言いたい。
 今、伝えたい。
 この溢れてこぼれてしまいそうな気持ちを彼に分かってもらいたい。

 心地良い衝動に身を任し、○○は、ゆっくりと口を開く――――……。



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