六万打企画作品 | ナノ
○○は一人、そのくらい部屋で昏々と眠っていた。
彼女が目覚めたのは一体いつだっただろうか。
一体いつから、彼女の身体は力無く、寝台に横たわったままなのだろう。
昔は、あんなにも笑っていたのに。
昔は、あんなにも遊び回っていたのに。
○○は倒れた訳ではなかった。
怪我もしていない、病気も罹患(りかん)していない、本当に健康体だったのだ。
また明日、おやすみなさいと朗らかに挨拶を交わしたその翌朝、彼女は目覚めなくなってしまった。
呼びかけても揺すっても、痛いくらいに頬を抓ってやっても寝返り一つしない。
誰も原因が分からない。だからどうすれば良いのか分からなかった。
数年間、○○は目覚めないでいる。
あの日から時が止まってしまったかのように、彼女は何も変わっていない。成長もしていなければ、髪も爪も伸びやしない。
○○だけが、猫族の時の流れの中置いてけぼりにされていた。
腹違いの弟である劉備ですら、時は動いているというのに。
――――関羽にとって○○は一番の親友だった。
一番最初に遊びに誘ってくれたのも関羽と同い年の○○と劉備だったし、それからも何かと一緒に遊んでいた。
一緒にいるのが当たり前の女友達。劉備と同じくらい大切な人。
「今日はね、張飛が水辺で転んでしまったの。……ああ、いいえ。転んだって言うよりは蘇双が突き飛ばしたのよね。その後関定も水の中に落ちちゃって、劉備も混ざろうとするから、大騒ぎだったわ。大丈夫よ、劉備は落ちてはいないから」
死んだよう眠る○○を見下ろしながら、関羽はその日にあったことを話す。
それは彼女が目覚めなくなってからずっと続いている関羽の日課だった。こうして毎日話しかけていれば、早く目覚めてくれるのではないかと、そんな可能性すら望めないささやかな願いに縋っている。
それでも、関羽は毎日のように彼女に話しかけ続けるのだ。
「早く起きないと、わたしもいつかお婆さんになってしまうかもしれないわ」
冗談めかして言っても、彼女は笑い飛ばしてくれなければ反応らしい反応も示さない。
空しいだけだ。
が、関羽は笑顔を崩さなかった。
○○の額をそっと撫でて、再び話を始める。
すると、暫くして、どたどたと慌ただしい足音が聞こえてくる。
苦笑を浮かべて扉を見やれば、扉が少しだけ乱暴に開き、喜色満面の劉備が顔を出した。
「関羽! ○○おきた?」
「劉備、いいえ。まだ目覚めていないわ」
首を左右に振ると、彼はしゅんと萎んでしまう。
しかし、すぐに気を取り直して寝台へ駆け寄って腰掛けた。
「ねぼすけ〜」
○○の頬をつついてくしゃりと笑う。
そんな劉備を見下ろしながら、関羽は相好を崩した。
劉備は決して悲観視しない。
絶対に、○○はいつか起きるんだと、起きたらどんな夢を見ていたのか訊いてみるのだと心待ちにしている。
彼がそんな風に前向きだから、関羽もこうしてめげずにいられるのだった。
劉備の頭を撫でて、関羽は○○を呼んだ。
「○○。劉備も待っているわ。早く起きて、どんな夢を見ていたか訊かせてね。ね、劉備」
「うん! ねぼーはだめなんだよ、○○」
はやく起きて、またみんなでいっぱい遊ぼうね。
○○に無邪気に笑いかける劉備は、そこで一つ欠伸をして、○○の横に寝ころんだ。遊び疲れて眠る時は、彼はいつもこうして彼女の側にいる。
関羽は布をかけてやって、劉備の心根そのままを表したような純白の頭をそっと撫でた。
‡‡‡
月の光は暗雲に遮られ、世界は完全な闇に覆われる。
前後左右不覚の世界の中で、彼女は目覚めた。
ゆっくりと瞼を押し上げ、左へと首を巡らせる。
そこには柔らかな眼差しをした《弟》がいた。
ぎこちなく笑えば、彼は「お早う」と言う。
お早うと言っても、今は深夜だ。自分達以外誰も起きていない。
……そう。今起きてこの暗黒にいるのは自分達だけ。
世界にとっては忌むべき異分子である自分達。
彼女は彼の名を呼び、謝罪する。それは《毎度》のことだった。
「どうして君が謝るの? 君は何一つ悪くないじゃないか」
「だって、私はあなたを守る為にこうなったのに、あなたは何一つ変わっていない。良い方向にも、悪い方向にも行っていない。不変であって欲しくて眠った訳ではないのよ」
彼女らの血は破壊の種だ。
目覚めればこの世界は病む。
かつて破壊の限りを尽くし、彼らの祖によって討滅せしめられた大妖の呪いが、この世界を再び貪り尽くすだろう。
そうなって欲しくないから、彼女は自ら眠るという選択をした。
自分と彼は、血だけじゃない、呪いを介(かい)して繋がっている。誰も知らない――――いいや、知ってはいけない繋がりだ。
その繋がりは恐らくは大妖が、分散してしまった呪いが、どちらかが死んだ時に残された方に移動する為のものなのだろう。
だが、彼女はそれを逆手に取った。
逆にこちらが生死の間――――仮死状態となり、自分の中にある力を封印することによって自分達の中で増幅する大幼の悪しき力を止めようとしたのだ。
そして、この数年の間に、彼女は夢ではない朧の空間に至り、そこが彼との繋がりに深く関係する場所であることも知った。そこでは彼女と彼の力が渦巻いていた。
二つの真っ白な塊だった。彼の塊は金色の、目のような物が中心にあって、ぎょろぎょろと周囲を見渡していた。彼女の塊には、目らしき物は無かった。
彼女はそれを見た瞬間、何のてらいも無く。彼の塊から一部を抉り取った。
そうして、自分の塊に押しつけ馴染ませた。
こうすれば真実彼が救われる、呪いから逃れられると確信があった。
彼女は、外の感覚で言えば毎日のようにその空間に入り込み、塊を抉り取っては自分の物に融合させた。
自分が仮死状態でいる限り、この力は封印される。それに力を求めることも無い。だから自分が囚われる心配は無い。
全ては弟の為、親友の為――――自分の愛する一族の為に。
だのに、彼の成長は一向に進まない。
こうして一夜限り本来の彼が覗くだけ。
自分の望んだような、思い描いたような結果は全く現れていなかった。
それが非常に申し訳なくて仕方がない。
「良いんだよ、君は気にしないで。……本当なら、そんなことをしないで関羽達と一緒に笑っていて欲しいんだ」
「それは駄目。私もあなたも囚われ支配されてしまったら大変なことになる」
猫族を守る為の選択なのだ。
今更意志を曲げる訳にはいかない。
まだ、まだ諦めない。
強く弟を見据えると、彼は泣きそうに眦を下げた。
「……ごめんね」
「……謝るべきは僕の方なのに。君は何一つ悪くないのに」
もし、僕が暴走してしまったら。
君のしたことが無駄になってしまったら。
申し訳なくて生きていけないよ。
そう言った彼に彼女はまた強張った表情筋で無理矢理に笑んだ。
「大丈夫。きっと私のしたことは無駄にならないと思うの。私は暴走して壊してしまわないようにこうして眠り続けるけれど、でも万が一暴走したとしても、悲観視はしないわ。関羽達がいるんだもの。猫族がきっと、止めてくれる」
その時に私のしたことが何か手助けになるかもしれない。
ならないかもしれないけれど、私は有り得ることは信じるわ。
彼の頬を撫でようと思うものの、身体が動かない。
役目を終えて眠る必要が無くなったとしても、もうこの身体は寝たきりになってしまうだろう。それ以前に、そんなことが起こるかも不透明だけれど。
「だから、大丈夫よ」
言い聞かせるように彼の名前を呼べば、彼は彼女をそっと抱き締めた。
「……分かってる。分かってるんだ」
でも、僕は。
「姉さんとまた、遊びたいんだ。昔みたいに。関羽や、張飛や、関定や、蘇双で、楽しく遊んで、疲れたら一緒に寝て、他愛ない話をして過ごしたいんだ」
それが出来ないのは、一番辛い。
未だに幼い彼の無垢な本心。
彼女は目を細めた。
そうして、愛おしげにそっと呟くのだ。
ありがとう、と。
嗚呼、抱き締めてあげられたら良かったのに。
この時ばかりは、ままならぬ身体が少しだけ悔しかった。
→後書き
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