六万打企画作品 | ナノ
包帯を巻き直す。
○○は私室で一人嘆息を漏らした。
清潔な包帯に隠された手首をそっと撫で、目を伏せる。長い睫がふるりと震えた。
……まだ、直らない。
駄目なのに、上に上に重ね続けてしまう。
止めろと言われているのに、匕首を握ってしまう。
自傷という行為に依存したままではいられない……変わらなくちゃいけないのに、変われない。
無理矢理にでも変えようとすると何かが歪んでしまいそうで怖かった。
そんな弱虫だから、自分は何も変われないのだ。何処まで厄介な女なのだろう。
これじゃあ、ずっと迷惑をかけていくばかりじゃないか。
やっぱり私は――――。
浮上しかけた否定的な言葉を咄嗟にかぶりを振って追い払う。
「駄目……そんなこと、もう思わないって決めたじゃない」
……いや、決めたんじゃない。約束したんだ。
夏侯惇と。
絶対に双子の関羽と自分を比べて劣ると言ってはいけないと。そこから、意識を変えていけと。
彼との約束だけは破りたくない。
○○は口を手で塞ぎ、心の中で約束を繰り返した。
考えちゃ駄目。そんなことを考えちゃ、駄目。
そうだ。こんな場所で一人でいるからいけないんだ。静かで誰もいない場所にいるから、こんな暗鬱となる天気だから、下らないことを考えて、約束を違えようとしてしまうのだ。
今日は朝から土砂降りで鍛錬場が使えない。日も閉ざされ湿気も多分に含んだ空気は肌寒い。
何もしないから考える他無いのならば、何かをして気を紛らわせれば良い。
○○は足早に部屋を出る。
彼女が曹操の下に就いてもう季節が一巡りしている。
今ではすっかり城にも馴染んで、初めこそ敬遠していた人間の、同年代の娘とも談笑出来る程になった。
○○にとっては、猫族の村よりも遙かに住み心地が良かった。
猫族は皆○○に対して腫れ物扱いだった。
○○が自傷行為していると知られたことは、果たして幸には転がらなかった。
彼女を危ういもののように扱う。自分達が追い詰めたと罪悪感を感じてはいるらしいが、やはり関羽に間違えるのはもう仕方のないことで、そうならないように皆彼女を遠ざけた。
決して、良いことにはならなかった。より面倒だと煙たがれている。
だから、この一ヶ月程、猫族の村には帰っていない。
それが猫族にとっても自分にとっても良いことだと思った。たまに関羽や世平が様子を気にかけて城を訪れてくれる。それだけで十分だった。
城では誰も○○を関羽と間違えない。煙たがらない。ちゃんと《○○》として接してくれる。
そんな場所を得られたことが、何よりも嬉しかった。
廊下を適当に歩いていると、前方に女官を見かける。
胸一杯に竹簡を抱えて歩きにくそうにしていたのを、○○が声をかければ彼女は安心したように笑った。
「○○。丁度良かったわ。半分持っていてくれないかしら。重くって……」
「うん。何処に運ぶの?」
「夏侯惇様へ至急お届けしなければならないの」
「本当に容赦ないわ、あの文官」辟易したように愚痴をこぼす女官に、○○は苦笑する。竹簡を持てば感謝された。
半分でも意外に量がある。これだけの量を女官一人に届けさせるというのは酷だ。
大変だったねと労うと、女官は唇を曲げた。
「○○が羨ましい。どんなに強くても女の子だもの。私なんてまともに剣も持てないから、護身用に父様から貰った匕首だっていつも部屋に置きっ放し。今度あなたに護身術でも習おうかしら」
「護身術……兌州にいる限りは安心だと思うけれど」
「分からないじゃない。そりゃ、○○には劣るかもだけれど、私も私で可愛いでしょ? 世の男がほっとかないと思うの。いつ襲われるか……」
「なるほど」
この女官、自分に対して非常に自信満々だ。
けれども快活な性格で面倒見も良いし、言葉に見合う程に見目が良いので、彼女の言葉は決して嫌味ではないのだった。○○と最初に仲良くなれた女官も、彼女だった。
女官の言葉に納得した風に頷き、ほぼ同時に歩き出した。
数歩歩いた先で、女官は唐突に話を切り出す。
「で、夏侯惇様とはどうなのよ」
まだ進展無いの?
呆れたような問いかけに、○○は足を止める。急激に身体の温度が上がった。
「ど、どうって……別に何も」
「夏侯惇様、多分私達よりもあなたの腕のことを案じておられるわ」
女官は言いながら足を止め、○○を振り返った。彼女の視線は○○の腕――――包帯に巻かれた手首に向けられた。
○○は気まずくて俯く。
「あなたが苦しんでいるのは見ていて良く分かるわ。でも、あなたを見ているとこちらも辛いのよ。夏侯惇様はそれも一入(ひとしお)だと思うわ。せめて、夏侯惇様を頼りなさいな」
「頼れって言われても、……」
黙り込んだ○○に女官は顔を歪める。辛そうだ。彼女はまるで自分のことのように胸を痛める。とても優しい娘だった。
諭すように名を呼ばれる。
何かを言おうと口を開いた直後に、彼女ははっと○○の後ろを見て慌てて頭を下げた。
○○も振り返ると、あっと声が漏れてしまった。
「夏侯惇さん」
兵法書を携えた夏侯惇が、二人を見比べていた。
「手伝いか?」
「はい。丁度夏侯惇さんにお――――」
「夏侯惇様。これをどうぞ」
女官が抱えていた竹簡を差し出す。夏侯惇がうっとなって後退するのに一瞬だけ呆れたような顔をした。
以前彼女は夏侯惇が女性が苦手であることを『何か、面倒臭い』とぼやいたことがある。上の身分とは言えど、好みでない男性には容赦がないのも彼女らしい。
夏侯惇は女官から文官の名前を聞くとああ、と一つ頷いた。
「すまなかった。重かっただろう」
「いえ。では、私はこれで」
○○の肩をぽんと叩いて、女官は己の仕事へと戻っていく。不器用故に仕事が遅いと自覚している彼女の足取りはいつも速い。大股に歩く足がたまにがに股なのにはもう驚かない。
彼女の後ろ姿を見送った○○は、夏侯惇を振り返った。
「お部屋に運べば良いんですよね」
「ああ、すまない」
微笑んで、かぶりを振る。
この城の中だと普通に笑える。自然に笑みが浮かべられる。村にいた時とは、大違い。
夏侯惇の部屋へは何度も訪れたことがある。基本的に戦の相談をすると長くなることが多いので、彼の部屋で話し合うことにしているのだ。
行き慣れた部屋に竹簡を運べば、夏侯惇は○○に謝辞を述べた。
――――そして○○の腕を唐突に掴む。包帯の上から強めに握られて痛みが走った。
○○の一瞬の表情を、夏侯惇は見逃さなかった。
「まだ、続いているのか」
嘆息混じりに言われ、○○はほぼ反射的に謝罪した。
「どうしても直らないのか」
「……」
短く頷く。
自傷行為は自分という存在の確認だ。
それを止めるのが怖い。自分の生を証明するものが無くなるのだから。
止めなければならないことは分かっている。
けども、自傷行為の無い未来が酷く不透明で不安しか見いだせない。
「頭では理解しているんですけど……どうしても止められなくて」
夏侯惇は沈黙した。
放された腕は、力無くすとんと落ちて反動で揺れる。
肩を縮めて彼の次の言葉を怖々と待っていると、彼は○○の頬を撫でた。身体が跳ねてしまったのは、夏侯惇の行動が予想外だったからだ。
困惑して瞳を揺らすと、夏侯惇は目を細めた。
ややあって、
「もう、その癖は直せ」
「分かっています」
「分かっていて直せていないのだろう」
「……分かっています」
直らないのは、怖いから。
この恐怖を払拭しなければどうにもならない。
○○では、払拭出来ない。
夏侯惇の手が離れていく。
その手は緩やかに降り、腰に差した剣の柄に至った。
抜く。
それまでは緩慢だった動作は一気に速度を増した。
それは瞬き一回する間に全てを終えた。
その光景を遮断するかのように反射的に閉じられた○○の瞼が完全に上がった時には、夏侯惇の腕には深々とした切り傷があった。
全身が冷めていく。
「なっ」
色を失った○○は自らの袖を裂いて血を溢れさせるそこに押し当てた。
夏侯惇はそれをぞんざいに振り払う。
「これからお前が傷を付ける都度に俺も己の腕を切る」
それが嫌なら、止めろ。
強いながらも諭すような柔らかな声音に、しかし○○はすぐには応えを返せなかった。返答に困った。
惑うように視線をさまよわせると、「何度切った」と問う。
○○は口を引き結んだ。言っては駄目だ。その分だけ彼は腕を切る。大事な、大事な腕を。それだけは、駄目。
嫌々をするように首を左右に振ると、夏侯惇は更に腕を切った。
どうして、声も無く問いかけた。彼は答えない。無言で二つ、三つと肌を裂いていくのだ。自分の相棒(けん)で。
答えなければ傷は増える。
答えても傷は増える。
――――どうすれば良いというの!?
○○は狼狽し、止めさせようと手を伸ばす。
けれども夏侯惇はそれを避けてまた切ってしまうのだ。いつもならこの程度の速さ、追い付ける筈なのに。動転した頭では反応しきれない。
○○は頭を抱えて後退した。止めて欲しいのに止めてくれない。どんなに言っても彼は○○の所為で傷つける。
私が、いつまで経っても自傷癖を直さないから。
傷つけて、傷つけて。
それでも直さなかったら、呆れて、辟易して。
嫌われる。
居場所が、また無くなる。
「――――……っ」
嫌だ。
……嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!
惑乱する頭の中で叫ぶのは誰だろう。自分の声だけれど、違うような気もする。
この城が居場所でなくなったら、猫族の村に戻らなければならない。
また腫れ物扱いを受けるなんて、嫌だ。
ここにいたい。私はここにいたい。
なら、どうすれば良い?
……。
……。
――――簡単なことだ。
原因を、この元となったモノを取り除けば良い。
「……める、止める、から……っ!」
絞り出した声に、夏侯惇は手を止める。
安堵したように「そうか」と穏やかな声を漏らした。
剣を鞘に戻すのを見届けた○○は、その場に力無く座り込む。気付けば泣いていた。いつの間に泣いていたんだろうか、全く覚えていない。乱暴に拭った。
すると、夏侯惇が目の前に膝をつく。
睨むような鋭い眼差しに射抜かれ、己の発言を省みて青ざめた。
出来るか分からないのに。安易な、ことを。
「わ、私、わた、」
夏侯惇は無言だった。無言で○○の身体を抱き寄せ、背中をそっと撫でた。
何も言わずに、労うその手の感触に、全身からどっと力が抜けていく。いつから、こんなに緊張していたのだろうか。
夏侯惇は何も言わなかった。よく言ったとも。良かったとも。
けども、○○は彼の体温を感じるだけで安堵を得られた。
居場所を守れたことと、夏侯惇が何も言わずにいてくれることと。
安堵が過ぎて、急速に瞼が降りていく。
「かこーと、さ」
「……直せたら、その時にお前に言いたいことがある」
「……は、い」
……眠い?
いいや、眠くはない。
ただ、ただ、意識が遠退いていく。
何故だ。何故、こんなにも心地良いのか。
額に何かが触れたような気がする。
それは何だろうか。
分からない。
分からないけれど。
意識が閉ざされるまで、この温もりには、離れていて欲しくはなかった。
→後書き
←→