六万打企画作品 | ナノ




 裁縫は随分と久し振りだ。
 得意とは言えないが、服の綻びを修復する程度の技術は持っている。まだ犀家にいた頃、任務で赴いた土地で見かけた女達が繕っているのを見て自然に身につけた、見様見真似の技術だった。今は猫族の女性からもしっかりと教えられているので独自の方法ではなくなっている。

 犀華が暴れて破けてしまった衣服を、幽谷はついでだからと池の畔で修復していた。暇潰しにもなる。

 犀華にあてがわれた部屋に裁縫箱が置かれていたのは幸いだった。やや古い物だが、手入れを怠っていない。
 それを有り難く借り受けていた。

 犀華が駄目にした服は多い。着ていた服、その辺に無造作に放り投げられていた服――――かなりの量だった。曹操に与えられた衣服の半分以上は損傷があるだろう。更にその半分はあまりに酷いので修繕は不可能。
 何とか出来る物でも一夜で終わらせることはさすがに出来ないが、効率良く出来れば数日で終わるだろう。
 池を眺めて立っているだけでも十分だけれど、こうして手先を使うことに集中するのも良いと、彼女は思った。……彼も、毎日ここを訪れる訳ではないのだから。

 今宵の夜空はどんよりと重い雲に覆われている。朝から曇天が続いている。夕方には通り雨もあった。雷が鳴らなかったのは幸いだった。幽谷の主は雷が苦手だから。怯えて部屋の隅で一人縮こまることが無い。
 通り雨の後の独特の臭いも、もうこの時刻には失せている。冷たい風は何の匂いも運んでは来なかった。

 城の中のほんの僅かな灯火だけを頼りに、黙々と針を通していく。

――――初めて破けた自分の衣服を直そうとしたのは幾つの頃だったか。
 あの時力加減を間違えて指先に深々と針を刺してしまった。それをたまたま見ていた犀煉が呆れ果てて、代わりに服を下仕えの女に修繕させてくれたっけ。

 今になって考えれば、彼は自分にままに優しくしていたのは、犀華の面影があったからだ。
 冷たくしようとも、しきれずに。
 ずっとずっと、幽谷に最愛の妹を見出しては苦しんでいたのだろう。
 呂布のもとに潜入した時、彼は安堵したのではなかろうか。
 ようやっと犀華を基に作られた四霊を見ずに住む。解放されたのだと。
 そのまま出会わなければ良かった。犀煉にとって、幽谷は犀華の《紛い物》。不要な、不快な《偽者》――――否、《偽物》でしかなかったのだ。

 何もかもが間違っていた、《私》。
 けれども《私》は《あれ》にこの肉体を明け渡すつもりはない。明け渡せば大変なことになる、恒浪牙にそう言われているから。

 幽谷が消えて無くなることに、本人は恐怖も抵抗も感じない。それがあるべき状態であることは自身が良く分かっていることだった。自分は生まれる筈の無かった自我。《幽谷》がいない器が元々の状態であるのだから、むしろ残ろうとすることは傲(おご)りだ偶然が重なって生み出されただけの存在にそのような価値など無いのだ。

――――なんて言ったら、関羽はどんな風に思うだろうか。
 嗚呼、考えてもどうにもならないことだ。
 浮かんだ疑問を、かぶりを振って打ち消した。

 改めて裁縫に集中すると、不意にかちゃりと微かな音がした。
 振り返れば、夏侯惇が怪訝そうにこちらを見下ろしていた。音を立てたのは彼の腰に差した剣のようだ。

 幽谷は緩く瞬きして、あっと声を漏らした。衣服と針を置いて拱手(きょうしゅ)する。


「……繕い物か」

「ええ。そろそろ直しておかなければ服が足りなくなってしまいます故」


 そう答えれば、彼は眉根を寄せる。
 犀華が暴れて部屋を滅茶苦茶にしていることは、彼も知っている。そして不快にも思っているだろう。

 けれども犀華の心情の一番近くにいる幽谷は、彼女が今こんな環境で如何に不安定で小さな衝撃で壊れてしまいそうに脆いかを知っている。
 夏侯惇も夏侯惇で許せない部分があるのは理解しているが、かといって納得は出来なかった。

 どう話そうかと思案しながらじっと見つめると、夏侯惇は幽谷の視線から逃げるように顔を逸らした。


「……?」

「……お、お前は、裁縫が出来たのだな」

「はい。関羽様が不得手でいらっしゃいますし、犀家にいた頃は自分で服を修繕しなければなりませんでしたから。自然と、人並みには出来るようになりました」


 夏侯惇が隣に腰を下ろす。

 何も話さないので、そのまま作業を再開した幽谷は、これより暫く後に手を止める。
 ……やりづらいのだ。


「……あの、そのように凝視しても、さして楽しいものではないかと存じますが」


 いや、確かに隣で黙々と作業しているのだから、気にはなるのかもしれない。暗殺しかしていないのだと思われているのかも知れないし、人ではなく四凶、四霊という認識があるが故に、物珍しいということも有り得る。
 だが、ずっと見られているというのは居心地が悪くて仕方がない。

 それを伝えると、夏侯惇自身も気付いていなかったというのか、虚を突かれたような顔をして、ばつが悪そうに視線を池へ向けた。


「私が繕い物をすると言うのは、おかしいことですか?」

「いや……そういう訳では、」


 否定するが、彼の表情から察するに、そう思っていたことは間違い無い。
 これでも一通りの家事もこなせるのだけれど……と心の中で言う。それも意外に思われたらそれはそれで傷つくので言いはしない。
 幽谷は吐息を漏らした。沈黙し、作業に戻る。

 夏侯惇は気まずそうだ。池に向けた視線も度々幽谷を見、様子を窺ってくる。気分を害したと思っているようだ。……正直言えば、彼に人らしいことを出来ないと思われていると考えると、少し引っかかるものがあるけれども。

 夏侯惇は暫く続いた沈黙に耐えかねて、


「……幽谷」

「何です?」

「気を悪くしたのなら、すまなかった」

「別段、気にしてはおりませんが」


 「気にしているだろう」ぼそりと呟かれた言葉に、溜息が漏れそうになる。が、口を引き結んで抑えた。

 夏侯惇は押し黙った。池を見つめ続ける。

 それを気にすることも無く、幽谷は針仕事に勤しむ。でなければ、短期間で修繕作業は終わらない。
 何着目かの服を終え、丁寧に折り畳んで後ろに重ね置く。
 そうして新しく修繕に取りかかった。

 それからも滞りなく進めていたのだが、夏侯惇は何が楽しいのだろうか。話をする気配も無ければ移動する気配を見せない。退屈なだけだろうに、ただ幽谷の隣に座って池を見つめているのだ。


「退屈ではないのですか。夜ももう遅いのですし、何もすることが無いのであれば、早々にお体をお休めになられた方がよろしいのでは……」


 怪訝に思って、手を止めて問いかける。
 夏侯惇はすぐには答えなかった。

 迷うように視線をさまよわせ、


「……俺がここにいるのは邪魔か?」

「いえ。ですが私と違ってそちらはすることが無いでしょう。ここいいても退屈なだけかと存じますが」

「俺がどうしようと俺の勝手だろう」

「……左様、でございますか」


 何なんだ、一体。
 いつもは会話をするけれども、今宵は違う。退屈するくらいなら身体を休めて明日に備えた方がよっぽど有意義ではないだろうか。
 幽谷は、何故か少しだけ不機嫌になった夏侯惇を探るように眺め、ふと彼の袖の先がほつれていることに気が付いた。
 今はほとんど目立たぬ程に小さいが、何かに引っかかって悪化するかも知れない。

 幽谷は何とはなしに袖に手を伸ばし、くんと軽く引っ張った。

 途端、大袈裟なくらいに夏侯惇の身体が跳ねる。彼は大仰に身を引いたが、袖が手から逃れることは無かった。

 幽谷は緩く瞬きして、袖を放す。頭を下げて謝罪した。


「ほつれておりましたので、気になって」

「ほつれ……?」


 夏侯惇は眉根を寄せ、幽谷の掴んだ袖を見下ろした。ほつれを見つけて隻眼を細める。「いつの間に……」と、不思議そうに漏らした。
 気付いていなかった彼はその箇所を良く見ようと袖を摘んで持ち上げる。

 幽谷はそこで別の針を持って彼に待ったをかけた。
 断りを入れて裏返し、ほつれた部分を確かめる。袖の色に合わせた糸を通した針を通した。
 幽谷は無言で、手早く修繕を施した。

 縫い目が目立たないことを確認して袖を戻せば、小さく謝辞を言われた。大したことではないと、淡々と返した。


「ですが、お暇な時にでも新しいお召し物を購入されて下さい。私が致しましたのは、応急処置のようなものですから」


 言いながら、針をしまう。
 今は袁紹との戦の気運が高まっている。この状況下で悠長に自分の服を新調しようなどと、そのようなことは彼は絶対に許さないだろう。その間だけ今の衣服で過ごせば良い。

 ついでだし、そろそろ終わりにしよう。
 そう思って修繕途中の針を服に刺したまま――――以前関羽に危ないから止めろと言われているが、この方が再開する時は楽だと彼女の注意は聞かないでいる――――慎重に折り畳み、修繕を終えた分、終えていない分を重ねて抱える。
 立ち上がれば夏侯惇も腰を上げた。


「もう良いのか」

「一夜で全てを終わらせることは不可能ですから」


 頭を下げて立ち去ろうと脇を通過すると、夏侯惇が幽谷を呼び止める。
 足を止めた直後に抱えた服を全て盗って行かれた。えっとなって夏侯惇を呼べば、彼は階段を上がりながら素っ気なく、


「部屋に戻るのだろう」


 と。

 いや、まあ……確かにそうだけれども。
 幽谷は曖昧に頷き、廊下を歩いていく夏侯惇を茫然と見つめる。


「……悪い物でも食べたのかしら」


 ……いや、張飛様ではあるまいし。
 頭の中で否定した。
 ややあって、夏侯惇の苛立ちを孕んだ声に呼ばれる。幽谷と呼ばれかけ、一瞬ひやりとした。

 幽谷は、夏侯惇の一連の様子を怪訝に思いながら、渋々と駆け出すのだった。



→後書き