六万打企画作品 | ナノ




 誰かと共有した《秘密》は、小さな子供にとってささやかな宝物だ。
 自分の心という箱にしまって、厳重に鍵をかけて、大事に大事に抱えておく。
 それを誰かに漏らしてしまえば、たちまちの内にその誰かと作り上げた世界が、秘密を作ることによって生み出された密やかでわくわくする小さな非日常が壊れてしまうだろうなんて、幼い心は怯え、どきどきと感情を高ぶらせる。

 私もそうだった。

 今だって誰にも話していない、誰かと共有した《秘密》がある。
 私が昔から守ってきた一つの世界。私の彼の何よりも大切で、特別な時間。
 私が何よりも大事にしているそれを壊してしまってはいけないと、キツく自身に言い聞かせて過ごしてきた。
 彼の、為に。
 彼が守り続ける者を守る為に、私はその秘密を隠し続ける。
 大事な、大事な宝箱に幾重もの錠を施して。




‡‡‡




 下邱が凶将呂布の手に落ちた。

 ○○は劉備を背後に庇いながら、目の前の女性を睥睨した。

 薄い紫の艶やかな髪をした見目麗しい女性は、見た目に似合わず物騒な戦斧を両手に持ち、愉しそうに宛然と微笑んでいる。豊満な身体は危うい色香を発し、その身体から発せられる甘い香りは脳すらも犯してしまいそうにかぐわしいのに、ぎらぎらと狂気にも似た凶悪は煌めきを放つ戦斧だけはいやに物々しく、二つの生み出す不調和が、更に更に彼女の異端さを助長する。

 彼女こそ、呂布。

 守らなければ。
 劉備様を守らなければ。
 ここに劉備様を守れる猫族は私しかいないのだ。


「○○……」

「劉備様。大丈夫ですよ」


 そう。大丈夫。

 ……。

 ……。

 ……大丈夫?

 いいや、大丈夫じゃない。
 大丈夫である筈がない。
 何を言っているんだ私は。
 私は――――戦えないじゃないか。
 身体が弱いだとか、異常があるだとか、そんなことではなく。

 自分は、猫族のの女性の中では一番弱いじゃないか。

 彼女に抵抗したって何にもならない。助けることは不可能。
 でも私が守らなければ誰が守ると言うの?
 私が守れなかったら、劉備様に危険が及ぶじゃないか。
 ○○は強く、己の恐怖心を誤魔化すように強く彼女を睨め上げる。

 すると、まるで最上の快楽でも感じたかのように、悦楽に表情がとろけて口がいやらしく弛むのだ。薄く開いた唇の合間から赤い舌がれろりと下唇を舐める。惹きつけられる艶やかさも、今この時ばかりは恐怖に変換された。

 ○○は必死に頭を働かせた。
 どうすれば劉備を守れるか。
 弱い私に何が出来るのか。
 呂布の動きを寸陰たりとも見逃さず、あれこれと思案を巡らせる。

 だが、どう考えても自分が呂布に隙すら作れるとは到底思えなかった。
 決死の覚悟で突っ込んでも、気を逸らして不意を付いても、無惨に殺される光景に行き着くだけ。
 冷や汗が、たらりと頬を流れ落ちた。

 と、呂布が○○に悠然と近付いてくる。
 そして戦斧を床に突き刺し、屈み込む。

 しなやかな手に頬を撫でられて、総身が粟立った。


「なんて可愛らしい猫ちゃん。子猫ちゃんみたいに強くはないですけれど……身体でなら、良い声を聞かせて下さるかしら?」

「身体……?」


 言っている意味が、よく分からない。
 眉根を寄せて訝っていると、呂布は嬉しそうに笑う。


「その何も知らない純真なお顔……まるで子猫ちゃんみたいですわ。ぐちゃぐちゃに乱したら、さぞ可愛らしいことでしょう」

「……こ、殺すのなら殺せば良いわ。でも劉備様だけはこの下邱から逃がすと誓って」


 なぶり殺されるのだと思った。
 だったらそれでも良い。
 劉備を助けられるかもしれないのなら、○○はそれにすら縋る。

 後ろで、劉備が○○を呼んだ。酷く怯えきった涙声だ。
 大丈夫。
 大丈夫だから。
 劉備様は、私が絶対に守って上げるから。
 私は、劉備様が何よりも大事なの。
 だから、大丈夫なの。


 私は、何も怖く、ないんだから――――!



‡‡‡




 自分と羅音は長く一緒にいすぎた。
 だから、一緒にいるのが当たり前で、とても、とても大切な存在だった。
 彼女もそう思ってくれている。自惚れでも何でもなく、本当のこと。

 けれどそれがいけなかったのだろう。


「……こ、殺すのなら殺せば良いわ。でも劉備様だけはこの下邱から逃がすと誓って」


 一瞬耳を疑った。
 そこまでして守ってくれなくて良いんだ。ずっと側にいてくれれば、それだけで構わない。

 だのに、彼女は劉備を守る為だけに命を投げ出そうとしている。
 呂布が先刻言ったのはそう言う意味ではない、もっと違う意味だのに。

 呂布は、○○を殺したいのではない。


「本当に可愛いですわね。でも、わたくしが言いたいのは違いましてよ」


 そっと身体を近付けて、○○を抱き寄せる。
 触るなと叫びたい。
 けれど、怯えきった幼い自我がそれを妨害するのだ。

 心の内で、止めろと怒鳴る。届かないと知りつつも、怒鳴らずにはいられなかった。

 ○○の身体をまさぐる女の手が疎ましい。
 ○○は自分とずっと一緒にいるのだ。昔からそうだった。これからもそう。

 呂布は、邪魔だ。


「そんなに怯えないで下さいな。……そうですわね、あなたがわたくしのものになって下さるのでしたら、劉備ちゃんには何も致しませんわ。あなたがわたくしから逃げない限りは」

「……」


――――駄目だ。
 受け入れては駄目だ。
 君にとって、永久に残る傷しか生まれない。

 駄目だ、駄目だ、駄目だ。

 その要求だけは、呑んではいけない。
 そう内側で訴えているというのに――――。


「……分かった。煮るなり焼くなり好きにすると良いわ」


 彼女は神妙に頷いてしまった。

 全身から、力が抜けていく。


「まあ、嬉しい!」

「その代わり、」

「ええ、ええ! 勿論分かっておりますとも! 張遼ちゃん、劉備ちゃんを丁重にお部屋へ連れて行ってちょうだいな」

「畏まりました、呂布様」


 金髪のなよやかな青年が、こちらに近付いてくる。
 嫌だ。彼を拒絶したくて、○○にしがみつく。

 けれども、○○は青ざめた顔で柔らかに微笑んで、そっと劉備を離すのだ。


「大丈夫です。劉備様。私が、……私が必ず守ってあげるから」


 違う。
 違うんだ。
 君はずっと僕の傍にいてくれれば良い。だから、無理して守ろうとしなくて良いんだ。
 当たり前だったあの頃のように、いつもいつも傍で《ぼく》世話を焼いてくれて、偃月の夜の《僕》にもいつもの笑顔を浮かべてくれてくれれば……。


「○○、」

「さぁさ。早速わたくしのお部屋に参りましょう!」


 行ってしまう。
 行かないで、行かないで、傍にいて。


「さあ、劉備さん。私達も、参りましょう」

「○○……!」

「大丈夫です。呂布様は、お約束は違えないでしょう」

「い、やだ」


 柔和な微笑みを浮かべる《人形》に過ぎないこの青年を、破壊したくてたまらなかった。



‡‡‡




 壊す。
 壊れる。

 壊す。
 壊れる。

 抑えきれぬ衝動が自分を突き動かす。
 まるで、自分の身体ではないかのよう。
 けれども長い間抑制されていた力を思う存分に震うと、気分は驚く程すっきりした。

 守る為に戦うことが、こんなにも爽やかな気持ちになれるとは思いも寄らなかった。

 劉備が手を振るえば、その女の珠のような肌には深い裂傷が幾つも走った。
 劉備が手を振るえば、その女のしなやかな身体はひしゃげて奇怪な形へと変化した。

 劉備の力を使えば。
 劉備の力を使えば。
 ……《劉備》の力を使えば。

 彼女を――――愛しい愛しい彼女を守ることが出来る。

 この力は、素晴らしい。
 強大さもさることながら、自分が愛おしい彼女を守ることが可能となるのだ。
 弱い彼女が無理をして傷つくことが無くなる。
 この力があれば……僕は、○○を守れる。

 そうすれば、いつも通り、傍で笑ってくれる――――。


「……劉備、様」


 その鈴の声に自我を呼び戻される。
 顔を上げれば、霰も無い姿を所々千切れた布で隠した○○が、泣きそうな顔でこちらを見下ろしていた。

 そこで、己の置かれた状況を知る。

――――流された。
 自分は力に流されたのだ。
 やってはいけないことをした。
 あるまじきことを、してしまった。


「ぼ、くは……」


 ……殺したんだ。
 殺して、しまった。

 僕が、呂布を。

 守りたい、ただそれだけに必死になり過ぎていた。
 いつの間に意識を呑まれていたのか分からない。
 分かることはただ一つ。

 《劉備》は何をしてでも○○を守りたかった。

 力に染まりつつ、自分はまだ闇には堕ちていない。
 その証拠に今は怖くて怖くて仕方がない。
 あの爽やかな感覚はもう無い。それに歓喜していた自分自身がおぞましかった。


「○○……ぼくは、僕は……」


 今自分はどちらなのだろうか。
 《僕》なのか、《ぼく》なのか。
 茫漠とした自我。
 彼女にどう接すれば良いのだろうか。

 分からない。
 分からない。
 ……怖い。

 手を伸ばそうとすると、○○は軽く目を見開いた。

 一瞬だけ瞳を揺らして抱きついてくる。
 ぎゅうと抱き締められて、甘い匂いが鼻腔を突いた。……鳥肌。
 これは○○の匂いではない。いや、厳密に言えば○○の匂いに呂布の臭いが混ざってしまっているのだ。


「○○……」

「ごめんなさい。やっぱり守れなかったんですね、私は」


 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
 何度も何度も彼女は謝った。

 彼女は弱い。何も出来ない。
 ○○は悪くない。
 悪いのは、《劉備》。

 君のことが好きで好きでたまらない《劉備》が、悪いんだ。

 背中に触れれば、ぬるりと。
 自分の指に付いた血だ。
 汚してしまう。

 離れなければならないのに、離れたくない。今この時自分は安らぐ。
 先程までの凶悪な自分が忘れられる。あんな自分は嘘だったのだと思ってしまう。
 そう、近くに転がる死体も、自分の指を汚す血も何もかも、自分がしたんじゃない。誰かが、呂布を殺したのだと、甘美な逃避に浸りそうになる。

 ……けれど。


「劉備様……ごめんなさい」


 彼女の謝罪は、この場においてはまさに毒だった。
 ○○の謝罪は劉備を現実を引き戻した。
 本人の意図無く、現実から逃れることを決して許さない。


「ぼく、は……守りたかったんだ。○○を守りたくて、だから……だから」


 言い訳でしかないことは分かっている。
 けれど、でも、○○には分かって欲しかった。
 自分は力に確かに流されたが闇には堕ちていない。○○のことが好きだから、保っていられたのだと。○○が好きだから守りたかったのだと。


「……好きなんだ、僕は、○○が好きで……」

「はい……はい……っ」


 涙声で彼女は頷く。
 苦しいくらいに強く抱き締めて劉備を慰める。


「傍にいて……」

「大丈夫です。私は、ずっと一緒にいますから。それしか、出来ませんから」


 頭を撫でられて、全身から力が抜けていく。安堵からだ。
 ○○を呼び、劉備は目を伏せた。

 視界を閉ざされれば、意識が見えない手に掴まれて、ゆっくりと心地よい闇に引き込まれた。

 これは、違う闇。彼女がもたらしてくれる安らぎなのだ。



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