六万打企画作品 | ナノ




「私のような賤(しず)の者に構われてはなりませぬ」


 思いを告げた時、○○はそう言って頑なに趙雲を拒絶した。
 彼女は元々奴隷であったことを未だに引け目に感じている。だから、拒まれるだろうと予想はしていた。それでも妻にと乞うたのは、○○も自分に好意があると確信があったからだ。そこに縋りついて求めれば、或いは了承してくれるかもと、少ない可能性に賭けたのだった。

 が、泣きそうに、申し訳なさそうに肩を落として拒む彼女に手を伸ばしても、すっと身を引いて避けられる。普段からもそうだった。自分は公孫賛に同情され下女に引き立てられただけの下賤、対して趙雲は公孫賛の信篤い武将――――身分に差が有りすぎると会話すらも気後れする。
 趙雲は、彼女の身の上など気にかけたことは一度も無かった。深い慈愛の籠もった瞳に、直向きな姿に心惹かれただけのこと。恋愛まで身分に頓着しなければならないとは思わなかった。

 それは何度も伝えている筈なのだが、強固すぎる彼女の壁は全く崩れない。


「話はそれだけでしょうか。なれば、失礼ながら仕事がございます故……」


 まるで逃げるように、彼女は身を翻して駆け出した。あまりにも強すぎる拒絶に、趙雲の胸は痛む。
 互いに想い合っていることは、趙雲にだって分かっている。
 だのに、どうしてこうも、上手く行かないのだろう。



‡‡‡




 生まれた頃から、嫌なことばかりでした。
 母は奴隷でした。父は母を買った豪商。母を無理矢理に抱いて、結果私が生まれたのでございます。
 母は、私がさぞ憎らしかったことでしょう。殺したかったことでしょう。
 ですが娘として、心から愛して下さいました。望んで産んだのでない、恨むべき存在である私を母親として、奴隷という途方もない苦痛に耐えながら育てて下さいました。

 ですが、あの男は私に対してもいやらしい目を向けてきました。不本意ですが、血の繋がった娘を性の対象として見ていたのです。
 母はそれに危機感を感じ、秘密裏に私を逃がして下しました。その時の母は心臓を罹患(りかん)し、もう長くは生きられない身体でございましたので、私だけが逃げおおせてしまいました。今でもそのことは悔しくてなりません。
 その後、風の噂で女の奴隷が主人を殺し、自ら命を絶ったと聞きました。母です。母が私の為に己の命を引き替えにあの男を殺したのです。

 耳にした時、全身から血の気が引きました。まるで自分の身体が死んでしまったかのように冷たく感じ、思うように手足が動かせませんでした。
 母に申し訳なくて仕方がありません。
 私は母にとって決して望んでいない子供です。それなのに苦痛のさなか私を育て上げ、私を守る為に命をなげうってしまいました。

 死ぬべきは、母ではなく私でした。

 それでもしぶとく生き続けたのは、私が生き物であるからでしょうか。
 生き物は本能が空腹を訴えます。生きたいと訴えます。本能にあらがえない私の理性は、なんと脆いのでしょう。母は死を選んだ時私以上に恐ろしかったのだと、考えずとも分かるのに。

 自分の命に執着し貪欲に生きた私は、生きながらえる中で何人もの男達に襲われました。奴隷の娘である私は奴隷。言葉を話しても、感情を露わにしても、彼らにとっては人ですらないのでしょう。
 公孫賛様に出会わなければ、きっと自分自身《○○》を人と認識しなくなっていたと思います。
 公孫賛様が私如きを哀れにお思い下さって、下女として雇って下さったのはまったき僥倖(ぎょうこう)でございました。

 下女の皆さんは、私に良くして下さいました。
 拾われ雇われた直後には温かな食事を恵んで下さいました。
 翌日に過労で倒れた時は、皆さんそれぞれ仕事の合間を縫って看病して下さいました。
 私の身の上を話すと、皆さん揃って涙して、私の母の死を心から悼んで下さいました。
 下女の方々だけではありません。
 道に迷ってしまうと、兵士の方々が私に丁寧に案内して下しました。
 私に、人の世の良いところを教えて下さいました。

 この身に余る幸せです。
 それだけで、私は満足するべきでした。

 私は身の程知らずにも、あの方に一目で惹かれてしまったのです。


『道に迷ったのか』


 まだ城に慣れぬ頃、誤って公孫賛様の私室の近くにまで迷い込んでしまった私を助けて下さったのは趙雲様です。
 その精悍な面立ちに思わず見入ってしまったのは、今でも無礼であったと重々承知しております。ですが、例えるならば清廉な滝のような空気をまとわれた趙雲様は、その場に立っているだけでもとても素敵な人でした。

 もし奴隷でなく良家の姫であったら――――詮無い邪心を抱く自分を、あの時程愚かしいと思ったことはございません。
 目的の場所へと案内して下さった趙雲様は、何を思われたのか、その後も私のことを気にかけて下さいました。公孫賛様から私のことをお聞きになられたのかもしれません。私にお声をかけて下さいます。

 私にとって勿論嬉しいことですが、反面とても苦しいことです。
 雲上と言っても過言でない、遠き場所に立たれる趙雲様と話しますと、いよいよ想いが膨らんでいくのです。抱いたとてどうにもならぬ感情だと分かっていますのに、会えば会う程私は趙雲様をよりお慕いするようになってしまいます。それは決して許されたものではございません。むしろ罰せられるべきことです。

 私は、やはり奴隷なのです。運良く下女になれただけの、生まれながらの奴隷なのです。

 ですから、趙雲様を拒まねばなりませんでした。
 私が受けてしまえば、趙雲様の品位を著しく下げてしまいます、どうして、そんなことが出来ましょう。いえ、出来る筈がございません。

 こんな私を妻に、お慕いする趙雲様からその言葉をいただいただけでも、母に愛されたことのような、極上の幸せだと噛み締めることしか許されないのです。





‡‡‡




 ○○は夜中、右北平からやや離れた小山に入っていた。
 軍医が薬草が足りないとぼやいていたので、自分が採ってくると申し出たのだ。
 ○○は身体がそれ程強くなく、彼の世話になることも多々あった。その恩返しとして、軍医が止めるのも聞かずに張り切って城を飛び出した。

 足りない薬草が生える小山が夜になると賊が現れると噂されているとは、兵士に聞かされている。
 けれども○○は、隠れるのは得意だからと高を括(くく)っていたのだ。

 苦心しながらも薬草を摘んだ○○は、その帰途にて不意に近くで耳障りな濁声の哄笑を聞いた。慌てて岩影に身を潜めた。

 笑声は確実にこちらに近付いてくる。
 どうかこのまま気付かないで離れていって。
 丸腰の○○は襲われても抵抗出来ない。逃げるにしても、この暗闇では人より多少優れた夜目でも無理な話だ。隠れて、じっと危険が去るのを待つ他無かった。

 だが、同時に兵士に同行を頼まなくて良かったと思いもした。
 さすがに依頼するべきかと考えたけれど、賊の数が分からない以上危険だからと止めたのだった。
 それが正解だったと彼女は安堵する。


「なあ、どうする? 最近、夜になると兵士が彷徨くようになっちまった。さすがに公孫賛の膝元で暮らすってのは無理があったんじゃねえか?」

「だな。この山は隠れる場所が多い、公孫賛のもとを訪れる奴らからふんだくっても簡単にゃ捕まらねえと思ってはいたんだが……そろそろ潮時か」

「移動するんなら、次何処にするか決めとこうぜ。飛び切り良い女がいる村が近くにある村とかさ」


 下卑た笑声は間近だ。
 どくり、どくりと緊張に早鐘を打つ胸を押さえてじっと堪え忍ぶ。逃げたい衝動を抑え込む。

 が。


「……おい、そこに誰かいんのか」


 ガインッ。
 ○○の隠れる岩に、鋼鉄がぶつかる。一瞬、火花のような物が視界の端に映った。

 見つかった!?
 逃げなくては、そう思って前のめりに身を乗り出した、その刹那である。


「――――そこで何をしている」


 凛々しい声が、夜陰を震わせた。

 聞き間違えるべくもない。それは趙雲のもので。先日彼の告白を断ったことが頭によぎり、胸が一瞬痛んだ。
 岩影から頭だけを出して、賊と問答をする彼の姿を捉えた。

 けれど、どうして趙雲様が?
 賊の話から、夜になると兵士がこの辺りを巡回しているらしいが、趙雲もその巡回をしているのだろうか。
 何にせよ、彼のお陰で助かった。

 ○○がこっそりと見守る中、趙雲は手にした松明を地面に突き刺し、己の得物をゆっくりと、見せつけるように構えた。その動作すら、相手を威圧するには十分だった。
 賊達は一様に鼻白んだ様子で一歩、一歩と後退し、趙雲から距離を取る。
 彼が前に一歩踏み出せば、途端に散り散りになって逃げ出してしまう。先程までの横柄な態度が嘘のようだ。皮相(ひそう)だけのことで、心内は臆病なのやもしれぬ。

 しんと静まり返って、再び岩影に隠れる。趙雲に見つかるのは何だか気まずかった。
 そのまま帰ってくれることを願いつつ待っていると、不意に。


「いつまで隠れているつもりなんだ、○○」


 ……呼ばれた。
 うっと呻いてそろりと顔だけを出すと、呆れたような、怒ったような趙雲がこちらを見ていた。その手にあの大剣は無く、松明がゆらゆらと炎を揺らめかせて趙雲を赤く照らしていた。
 大人しく出ると、趙雲に頭をそっと撫でられた。それを無言で身体を離して剥がすと、彼は目を伏せて吐息を漏らし手を降ろす。


「軍医が俺の所に駆け込んで、お前のことを話してくれたんだ。こんな夜中に出ればどうなるか分かっていただろう」

「……男性から隠れるのは、昔から得意だったので」


 そう答えると、彼は苦々しい顔をする。
 再び手を伸ばしかけたのに、○○は即座に反応した。彼から距離を取り、木の根に足を取られて尻餅を付いてしまった。


「いった……」

「大丈夫か?」


 手を差し伸べられ、躊躇する。
 けれど、趙雲が強引に腕を掴んで引き上げた。


「あ、申し訳、」

「……俺は、お前が好きだ。身分など関係なく」


 不意打ちのようなそれに、○○は俯く。どう言われようと彼の申し出を受けるつもりはない。
 自分は卑しい身の上だ。
 ……それに。


「趙雲様。この世に於いて女は、子を産まねば意味がありません。それは身分の高い方であればとても重要なことだと存じます」


 今まで何人の男に抱かれたか分からない。
 確かなことはただ一つ。

 一度たりとも身ごもったことが無いと言うこと。

 ○○は、石女(うまずめ)なのである。

 それを言って頭を下げると、彼は眉根を寄せた。


「俺は子を産んで欲しいからお前を妻に望んでいるのではない」

「それは、あなた様だけの感情です」


 武将である以上、家を存続させる為に子孫は残さなければならない。それが出来ない○○を妻になど、喜ぶのは望んだ趙雲のみだろう。
 はっきりと告げると、彼は苦しそうに顔を歪めた。

 ○○は彼がそれ以上食い下がる前に、頭を下げて歩き出した。


「では、私はお先に失礼させていただきます」


 大股に、少しでも趙雲から離れようと帰路を急ぐ。

 その後ろで、


「俺は、簡単には諦めないぞ」


 力強い言葉が○○の頭を、胸を殴りつける。

 駄目なのに。
 どうしてあの人は諦めてくれないのか。
 心の中で問う。

 当然ながらその問いに答える者はいないのに、延々と繰り返した。



→後書き