六万打企画作品 | ナノ




 和毛に顔を埋めて慣れ親しんだ獣の臭いを一杯に吸い込む。
 臭いと言いつつも私はきゃらきゃらと笑って犬の体躯に抱きつく。

 その犬とは兄弟だ。兄と一緒に育ったから、もう老い耄(ぼ)れてまともに歩くことも難しいけれど、今までずっと私達家族の傍で家の歴史を見てきた。
 抱きつくとその弱った身体が日に日に痩せ細っていくのが分かる。
 けれども私は、強引に遊んだり歩いたりしないながらも普段通り、彼の傍を離れなかった。
 兄も一緒だ。
 たまに両親も一緒にその日のことを話す。
 その犬は大事な家族だった。

 余所の姫君には馬鹿にされるけれど、そんな時は笑顔で言ってやる。あら、そんなに大きくて丸い目をしていらっしゃるのにそんなに視野が狭いなんて、このご時世、将来夫となる殿方と上手くやっていけるのかしらって。

 犬も生き物だ。私達より鼻が良い、耳が良い、足が速い。
 自分達のように着飾らなくとも凛々しく、或(ある)いは愛らしく。
 自分達のように重い甲冑や得物に頼らずとも戦う。
 脆弱な人間は、何を思って彼らより自分達が勝ると言うのだろう。むしろ劣っているのは自分達だ。それが分からない人間達は本当に愚か。

 そう、犬だって生きている。
 彼が死んだ時、改めて実感した。

 朝だった。
 私はいつも目覚めて身支度を整えると一番にその犬に朝の挨拶をする。家族皆がそう。だから彼のもとに行けば、家族皆が笑っているのだ。

 けれどもその時は、誰も笑っていなかった。皆が暗い顔をして、彼を見下ろしていた。

 私は幼いなりに漠然と察した。察してしまった。
 それを信じたくなくて、お早う、今日も一杯お話ししようねって駆け寄った。

 触れた途端全身に電流が走ったみたいだった。
 実際には犬の身体が凍ったように冷たくなっていてそれに驚いただけ。
 でも、私にとっては鈍器に殴られるよりも刃物で刺されるよりも、衝撃的で痛い事実だった。

 冷たくて、硬くて、閉じられた瞳は、幾ら呼んでも開かなくて。
 昨日は丸くて黒い目で私を見上げて、尻尾を振って、私の手を舐めてくれたんだ。
 でも、でも。

 兄に抱き締められて、私は知ってしまった。


 大事な家族が死んでしまったんだ。


 ……父も、母も、兄も。
 皆同じだった。
 冷たくて、硬くて。どんなに呼びかけても目は開かない。声も出さない。
 もう、それは生き物じゃなくて。

 《遺体》と言う名の物体だ。

 これは偶然なのだろうか。
 家族は皆、犬と同じ日に亡くなった。同じ日に私を置いて逝った。

 命日が同じだと面倒臭くなくて良い。
 そう思って、ほんの少しでも前向きになりたかった。

 でも。
 だけど。
 それでも無理だった。

 だってそうでしょう?
 同じ日に私以外の家族が皆死んでいるなんて。
 それだけ孤独が強まってしまうじゃない。
 苦痛がそれだけ強まってしまうじゃない。

 ……ねえ、どうすれば良いの?




‡‡‡




 夕方になって趙雲が蒼野を訪れた。
 彼に気付いた蘇双は、その背に負ぶわれた女性に目を剥く。


「○○?」


 眠っているらしい彼女の顔面は蒼白。まるで病人のようだ。
 何事かと訊ねれば、彼はまずは何処かの家に寝かせて欲しいと頭を下げる。

 やむなく、蘇双の家で安静にさせることとした。

 その間にも、○○は目覚める気配を見せなかった。

 最近蒼野に顔を出さなかった○○が来たと思ったらこんな有様で、趙雲に背負われての登場だとは非常に驚いた。
 だが何故趙雲は体調の悪い彼女を蒼野まで連れてきたのか……。

 母の部屋を借りて中央に○○を寝かせた。
 彼女を挟んで座り、趙雲を呼ぶ。


「……で?」

「今日は、○○の家族全員の命日なんだ」

「全員?」

「ああ。偶然にも、彼女の家族は皆、この日に亡くなっている」


 趙雲曰く。
 命日が近くなると、決まって○○は自ら仕事漬けになる。他者の仕事も進んで受けるから、結果こうなってしまうらしい。


「ならここに連れてくるのは負担じゃないの?」


 趙雲はかぶりを振って否定し、痛ましげに○○を見下ろす。


「城にいれば必ず仕事をする。今年ばかりはそれが酷いようでな。公孫賛様の命で睡眠薬を飲ませて城から連れ出したんだ」


 仕事に没頭して、命日を忘れようとしたのか。
 こんな身体になるまで。


「……馬鹿?」

「ああ、馬鹿だ」


 蘇双の呟きに趙雲は大きく頷いた。


「俺は、○○の兄から彼女のことを任されている。こんな風になるまで家族の死を忘れようとする姿は、見ていて痛々しいし、もどかしい。彼らも、彼女のこんな姿は望まないだろう」


 暫くここに彼女を滞在させてはくれないだろうか。
 趙雲の懇願に、蘇双は腰を上げる。自分は構わないが両親に訊ねてくると一旦部屋を出た。

 幸いにも両親は庭でそれぞれ作業をしていた。
 彼らに○○のことを話し、趙雲の頼みを伝えれば、快い返事が返ってきた。○○は奇特な性格をしているが、存外猫族からの人望はあるらしい。……つい最近分かったことだが。

 部屋に戻って了解を得たと告げると趙雲は心から安堵していた。余程○○のことを案じていたのだろう。


「では、俺は○○の仕事を片付けなくてはならないから、このまま帰るよ」

「まだ残ってるの?」

「恐らくは徹夜だな。毎年のことだ。もう慣れたよ」


 苦笑する趙雲は、ゆっくりとした動作で腰を上げ蘇双に頭を下げた。○○を一瞥し大股に家を出ていった。

 蘇双は○○を見下ろし、頬にかかった髪をそっと払ってやった。
 どれくらい前から仕事漬けだったのだろうか、以前見たよりも少し痩せているようだ。

 ここまで自分を追い詰めてまで忘れたいと思う程辛いのか。
 いつも楽天家な彼女がこんな一面を見せることに関しては蘇双は驚かない。驚いたのはこの有様にだ。
 だいぶ前に、彼女は酔った勢いで弱い部分を蘇双に吐露している。本人は覚えていないようだが、蘇双は未だに鮮明に記憶している。


『……私、ひとりぼっちなの』


 拙(つたな)い、まるで子供が甘えるような声音。
 普段の彼女とは想像も付かない姿は、恐らくは趙雲も見たことが無い。そのことにほんの少しだけ優越感を持つが、すぐに消す。こんな時に何を考えているんだ、自分は。
 彼女の額を撫でて、蘇双は目を細めた。



‡‡‡




 虫達も寝静まった夜遅く、床が軋む音に意識が浮上した蘇双は目を開けた。寝床を抜け出して部屋を出ると同時に、誰かが家を出るような物音が聞こえた。
 まさかと思って衣服を身にまとい足早に追いかけると、その姿は簡単に見つけられた。
 村の中を頼り無く歩くその人影は、暗闇でも判然とした。

 ○○である。
 まるで夢遊病者のように左右に揺らめきながら宛もなく彷徨(ほうこう)する彼女は、ふと立ち止まって天を仰いだ。両手をだらりと垂らし、顔だけを上に向ける。

 世話の焼ける女性だ。
 蘇双は溜息をついて彼女に歩み寄った。

 が、程なくして足を止める。
 ちらりと見えた彼女の頬に、光る物があったのだ。
 流れ落ちていくそれが何なのか、悟る。

 ……泣いている。
 空を仰ぎながら泣いている。
 蘇双は声をかけることを躊躇った。

 だが、今日は冷える。
 体調を崩しているのならこのまま放置は出来なかった。
 意を決して○○を呼ぶ。

 すると、彼女の肩がぴくりと揺れた。振り返る。

 ○○は無表情だった。凍り付いたように、右目から涙を流しながら何の感情も表に出していない。


「蘇双殿……」

「夜中に抜け出すの止めて。外に倒れられていたら迷惑なんだから」

「ああ、故に右北平に戻ろうとしていた。蘇双殿にもご両親にも、要らぬ迷惑をかけてしまってすまなかった」


 いつもならここで笑みを浮かべて拱手をするだろう。
 けども彼女は何もしない。口は人形のように動いて抑揚の無い音を漏らす。何かを抑え込むように。

 その様に、蘇双は頭の片隅で納得した。
 命日には彼女はこうなるのだ。
 だから、敢えて仕事に没頭していたのだろう。
 そうしなければ、何かが崩れてしまうのだ。崩さない為に、無表情で、人形になっているのだろう。
 蘇双は数度瞬きし、○○の前に立った。


「無かったことにする」

「は?」

「ここであったことは全て、無かったことにする。……だから、何をしても良いよ」


 瞠目。
 ようやっと表情らしい表情を表した○○は蘇双を凝視した。

 手を伸ばし、彼女の頭をそっと撫でると○○は薄く口を開いてすぐに引き結んだ。唇を震わせた。

 蘇双は黙って彼女の頭を撫で続けた。待ち続けた。

―――暫くして。


「そそ、どの……、っ」


 ○○は俯き、高い呻きを漏らすと蘇双に縋るようにもたれ掛かった。肩口に爪を立てて、懸命に声を殺して、ぼろぼろと泣いた。
 びくびくと痙攣し、嗚咽を漏らす彼女の身体をそっと抱き寄せて背中を撫でる。

 ○○の身体は驚く程に華奢だった。見るよりも、はっきりと痩せていると分かった。
 こんなになるくらいなら、全て晒して楽になれば良いのに。

 少なくとも、ボクは別に嫌でも何でもないのにさ……。
 心の中でぼやき、蘇双は腕にそっと力を込めた。



‡‡‡




 ○○は一頻(ひとしき)り泣くと、赤く腫れた目元を隠しながら気まずそうに蘇双から離れた。あんなに泣いていたのに、存外落ち着くまで時間はかからなかった。


「……すまない。その、……貴殿に醜態を見せてしまった」


 俯き加減に申し訳なさそうに言う○○に、蘇双は素っ気なく言う。


「別に、気にしてない。無かったことになるし」

「……ああ、そうだった。けども、すっきりした」

「そう。それは良かったね」


 にべもなく言う。
 けれども○○は口角を弛めた。少しだけ恥ずかしそうだ。


「他人の前で、こうも泣いたのは初めてだ。だが、ただ泣くだけで、こんなにもすっきりするとは思わなかった」


 どれだけ泣いていなかったのだろうか、それももう覚えていない。
 泣き方も忘れてしまったと思っていたのに。
 自嘲するようにそう言って、○○は身体を折り曲げた。


「ありがとう」

「別に礼を言われるようなことじゃ……」

「いや、言いたいんだ。言わせてくれ。蘇双殿、ありがとう。……それから、迷惑をかけること覚悟で申すが、またいつか、蘇双殿の世話になるかもしれない。それでも良いだろうか」

「いや、別にそれは良いけど……」


 大したことではなかった。
 それがこうも真摯に礼を言われてしまうと、真摯に頼まれると、どうにも気恥ずかしいものがある。
 蘇双は渋面を作り唇を歪めた。


「……そ、それよりも、早く寝なよ。体調を崩されでもしたら、趙雲の気遣いが無駄になるし、何より迷惑だし」


 無理矢理に姿勢を正させて、腕を掴む。ぐいと引いて歩き出せば、○○が声を詰まらせ、何故か咳き込んだ。


「ちょ……何? まさかもう体調崩したとか言わないよね」

「……あ、い、いや。いや。恐らくはそう言った類の物ではない。急に動いたから身体が驚いたのだろうと思われる。それだけ身体が弱っているんだろう。蘇双殿の仰る通りに早急に休ませていただく」


 真剣に、己の胸を押さえて思案する。

 彼女に何が起こったのか分からないから、蘇双はそれ以上は訊かずに、早く休ませた方が良いとほんの少しだけ歩調を早くするのだった。



 急ぎ足の蘇双に従いながら、○○はふと、天を見上げる。
 その頬が、僅かに赤らんでいた。



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