六万打企画作品 | ナノ
○○は孤児であった。
幼い頃戦禍で両親を殺され、この徐州に逃れてきた。
自身も身体に酷い傷を負って今もなお消えぬ傷痕を残し、刃物に対して少々の心的外傷も抱えているけれど、気丈で朗らかな娘に育っている。
それは、彼女の《同居人》も起因しているだろう。
「おかあさーん!」
洗濯物を干していると、愛くるしい女児の声が何処からか聞こえてくる。
○○は手を止めて周囲を見渡し、その姿を見つけて相好を崩した。
「あら。どうしたの、豊春(ほうしゅん)」
五歳程の女児――――豊春は、はにかんで嬉しそうに笑いながら、淡い桃色の花を一輪○○に差し出した。
「可愛いお花ね。私にくれるの?」
「うん!」
「ふふ、ありがとう」
屈んで花を大事に受け取ると、豊春は○○の首に抱きついた。
そこで、頭に作られた二つのお団子両方に同じ花が二輪ずつ差してあるのに気が付いた。
「豊春。同じお花をお団子に差しているわね。とても似合っているわ」
「えへへ。関羽さまがしてくれたの!」
「そう。お礼はちゃんと言った?」
「うん!」
ご機嫌の豊春をぎゅっと抱き締めて放し、「偉いわ」と頭を撫でてやる。
豊春は擽(くすぐ)ったそうに身を捩り誇らしげに満面の笑みを浮かべた。
そうして、何かを思い付いたように、○○に手渡した花を一旦返してもらって背後に回る。なぁに、と問いかけても秘密と言って教えてくれない。
仕方がないのでむくれつつ暫く彼女のしたいようにさせていると、喜色一杯の弾んだ声を上げた。
「おそろい!」
「お揃い……」
後頭部高くに結い上げた髪を触ると、束ねる紐に、あの花が差し込まれているらしい。
お揃いというのは、このことか。
納得した○○はまた破顔して豊春へ謝辞を返す。
豊春は、頬を赤くしてとろける笑みでまた抱きついてきた。
その身体を抱き締めて、○○は《娘》の生を噛み締めた。
――――○○は、十六歳である。
対して豊春は五歳。
親子と言うには無理のある年齢だった。
それもその筈。
二人には血の繋がりは全く無い。
徐州へ辿り着いたのは○○が十三の頃。その時すでに豊春と共にいた。
母の親戚がいるという、一時の会話で流された確証の無い情報だけを頼りに徐州を目指した道程で、○○は豊春を託されたのだ。
豊春の両親も兵士の乱捕りに遭い、○○が見つけた時にはすでに瀕死の状態にあった。
もう助からないと分かっていた彼らは、未だ匍匐(ほふく)での移動しか出来なかった豊春を○○へと預け、命を落としたのだった。
豊春の両親の願いを快く了承した○○は、彼らを山中に埋め菩提を弔った後、豊春を自らの娘として育てつつ旅を続けた。
そうして、この徐州に至ったのである。
残念ながら徐州に住んでいた親戚は別の街に移っており、この下邱には残っていなかったが、近所の厚意でその親戚が住んでいたという空き家に住まわせてもらった。
それから早数年――――豊春には、本当の両親のことは未だに話していない。十程になれば全てを話すつもりではあるが、彼女が願うならばそれ以後も彼女の母親で居続けるつもりだ。
それが自分の責任だし、何より戦禍で孤独になってしまった豊春がこうして幸せに成長していく様子を側で見守ってあげたい。何か災いが降りかかれば、無き両親に代わって自分が守ってあげたい。
若いながらに、○○はしっかりと母親として豊春を育てていた。
「お母さんはまだ洗濯物があるけれど、豊春はまだ外で遊んでいる? だったら、夕方にはちゃんと帰ってきなさいね。最近、だいぶ冷え込んでくるから」
「ううん、豊春ね、おかあさんのおてつだいするの」
「まあ、嬉しい」
「じゃあ、洗濯物を、大きな物からお母さんに渡してくれるかしら」小首を傾けて頼めば、豊春は大きく頷いた。
‡‡‡
○○は健やかな寝息を立てる娘を見、口元を綻ばせる。繕い物をする手は休めない。
豊春は母親似だ。目は丸く、左に泣き黒子があり、真っ黒な髪も少しだけ波打っている。
さすがに性格までは分からないけれど彼女の母親のような愛らしい女性になるかもしれないと思うと、少しだけ嬉しいような、自分が母親でない事実を突きつけられるようで悲しいような、複雑な重いが胸の中で渦巻いた。
豊春が好い人のもとに嫁いでいく時、自分はどうなっているんだろう。
結婚しているのかしら。
独身のままでいるのかしら。
そんなことを、たまさかに考える。
されど決まって、『豊春が幸せなら私は良いや』と落ち着いてしまうのだった。
近所の人達が良く見合い話を持ってくるけれど、どれも全て断っている。未だ豊春のことで手一杯で、とても恋愛に目を向ける余裕は無かった。
年頃の女としては、それが少し寂しくもあるが、それ以上に豊春の成長には感慨深いものがある。○○にとって優先すべきことなのは幼い豊春だった。
「……ああ、そうだったわ。関羽様に何かお礼の品をお送りした方が良いわね」
先日、曹操軍の脅威から下邱を救ってくれたのは、かの十三支――――否、猫族だ。
刺史陶謙が不慮の死を得て、彼がいまわの際に徐州を託したのは猫族であった。
徐州の民はこれを拒絶しなかった。する筈がなかった。勝ち目が無い戦なのに、自分達の為に戦って、曹操軍を引かせた大恩人をどうして十三支と蔑み拒むことが出来ようか。
今では人間も猫族も立派に共存し、良き隣人となっていた。
その中の関羽は、有り難いことに豊春を良く可愛がっていて、ままに遊んでくれる。
○○と年が近い所為か、この家に遊び来て○○と他愛ない会話を楽しむこともあった。
彼女を介して他の猫族とも交流を持ち、豊春も友達が増えたと大層喜んでいる。
これは徐州にとっても、○○親子にとっても良い縁であった。
日頃のお礼も込めて、今度何か送ろう。
何が良いかと頭を働かせると、繕い物の方がおざなりになった。
そして、針を人差し指に刺してしまった。
「いたっ」
針を放して刺した部分を凝視すればそこからぷっくりと赤い膨らみが生まれ、徐々に大きくなっていく。
存外深く刺してしまったようだ。
裁縫道具を片手で手早く片付け、手拭いで患部を強く圧迫する。
血が止まったところで手拭いを放す。一旦繕い物は止めておこうと道具も布も片付けた○○は、お茶を淹れる為に腰を上げた。
その時である。
「こんにちは!」
「え? ……あらあら、劉備様ではありませんか」
唐突な訪問者に○○は目を丸くした。
玄関から元気の良い挨拶と共に入ってきた純朴な白い猫族の少年は、豊春が昼寝の最中だと知ると口を両手で押さえてそろりそろりと○○の前まで歩いてきた。
豊春は遊び疲れて爆睡しているので、身動ぎした程度で起きる気配は無い。
○○は微笑し、腰を折って劉備と目線を合わせた。
「いらっしゃい。今日は、お一人なのですか?」
「うんっ。あのね、今日一杯お手伝いしたの」
「それはとてもよろしいことですね。偶然でしょうけれど、豊春も、今日は私のお手伝いをしてくれたんです」
劉備は「えらいね!」と豊春に静かに近付き、その頭をそっと撫でた。
まるで兄のような姿に弛んでしまう口をむずむずと動かし二人分の茶を淹れた。
猫族の長劉備も関羽を介して知り合った。
最初は豊春と良く遊んでくれていただけなのだが、少し前に転んで怪我していたのを手当てしたところ、こうしてままに彼女を訪問するようになった。
関羽同様他愛ない話をして帰っていく。
菓子も一緒に持ってくると、劉備は患部を押さえた手拭いを持っていた。
血の付いた場所を見つめ眉根を寄せている。
○○は苦笑した。
「先程、考え事をしていて、誤って針を刺してしまったんです。血はもう止まったので、大丈夫ですよ。はい。お茶とお菓子をどうぞ」
「……ありがとう。指、いたくない?」
茶を受け取った劉備は、不安げに○○の手を見下ろす。
「はい。大丈夫ですよ」
笑って答えると、彼は安堵したように全身を弛緩させる。茶を一口飲んでほうと吐息を漏らした。
劉備は他人の怪我に敏感だ。特に関羽などの親しいものであればある程、泣きそうに顔を崩してしまう。
彼は純白で、誰よりも優しいのだ。
それが劉備という少年の一番の長所だと、○○は身の程知らずと自覚しつつも思う。
ただ、彼自身弱いと思い込んでいることがとても歯痒い。
優しさも一種の強さだ。
特にこの戦乱の世の中では失われつつある、柔らかな強さ。
それを彼は生まれながらに備えているというのに、強くないと、自分は弱いと無駄な卑下をする。
本当に勿体ない。
「劉備様。今日は、どんなお話をお持ち下さったのでしょう」
「あ、うん。えっとね。今日はみんなで徐州のことをおはなししたの。いっぱい、いっぱい」
「劉備様は刺史ですものね。私とさほど歳も離れていないのに、しっかりとお役目を果たされておられるようで、凄いです」
本心から言うと、劉備は誇らしげに胸を張る。
けれど、次の瞬間には眦を下げて上目遣いに○○を見上げてきた。
「ねえ、○○。ぼく、ちゃんとお仕事できてる?」
「さあ、それは、私は何とも言えませんね。私のような平民はお城には入れませんから、劉備様のお仕事を目で見たことはありません」
「ですが」○○は口角を弛めて目を細めた。
「僭越ながら、劉備様は徐州のことをちゃんと大好きでおられますよね。それは、刺史として何よりも大事なことだと思います。徐州のことが大好きでおられるのなら、劉備様は立派な刺史様です。大事であればある程、周りの方々と一生懸命考えていけるでしょう? 刺史は自分だけで決めるんじゃないと思います。近くの方々から沢山の意見を求めてまとめ上げる。劉備様はその中心におられる方です。そんなあなたが誰よりも徐州のことを大好きでいることが、劉備様のお仕事だと思いますよ」
そっと手を伸ばして頭を撫でてやる。
すると、劉備はつかの間思案し、ぱっと笑顔になった。
「分かった! ぼく、がんばって仕事する!」
「ええ」
袖を引いてきたので身を乗り出せば、頬に口づけられる。
「まあ」
「お礼!」
何処でそんなことを覚えてきたのだろう。
少々面食らいつつ、立ち上がった劉備を見上げる。
劉備は張り切った様子で玄関へと走った。
出る直前で○○を振り返り、
「お仕事してくる!!」
大きく片手を振るのだ。
○○はその可愛らしくも頼もしい姿にくすりと笑声を漏らし、手を振り返した。
「行ってきます!」
「はい、行ってらっしゃい」
ぽかぽかとする胸に微かな擽ったさを覚えた○○は、少しだけ身を捩るのだった。
「一体何処であんなお礼の仕方覚えてきたのかしら……」
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