六万打企画作品 | ナノ
真由香は許昌の城の中を歩いていた。
壁に手をついて、適当な廊下を進んでいるので何処に行くのか分からない。けれどもそうやって宛も無く城の中を歩くのが今では彼女の日課となっていた。
彼女が猫族の村から無理矢理にこの城へ連れてこられてから数ヶ月。持ち前の天然もあって、今ではすっかり城に馴染んでいた。
最初こそ警戒していた者達も、一ヶ月も経過すれば次第に馬鹿らしくなったようだ。真由香の周りの世話をあれこれと焼いてくれるようになった。
円滑な生活が出来ることは有り難いけれど、ただ、ままに猫族の村に戻りたいと思う時もある。
強引に連れてこられた為に、相棒とも言えるバイオリンとも離ればなれだ。手入れをしたいし、弾きたい。
それに関羽達とも会いたい。
いつか戻してくれるとこの城の主は言っているけれども、それがいつになるのかは不透明だ。
皆、元気かなぁ。
バイオリン壊れていないかなぁ。
呟きながら歩く。
鍛錬場が近いのか、兵士達の逞しい掛け声が聞こえてくる。
この城の兵士達は熱心だ。束ねる将が直向きな性格をしている影響だろう。彼の武に対する姿勢はとても素晴らしいと思う。バイオリンに対する自分と通じるものがある、と密かに同族意識を持っていたりする。口にすると馬鹿にされるか否定されるかだろうから言いはしないけれども。
されど、この城にいると戦がより身近に感じられる。
肌で感じる空気も、猫族の村とは違う。あそこは長閑で柔らかい。ここは堅く張り詰めていて、今でも少しだけ怖かった。
良い人達ばかりではあるのに……戦場では人を殺し、その首の数で功を競う。
古の、日本のように。
戦が始まったら、どうなってしまうんだろう。
この城も騒がしくなるのかな。
敵兵をどのようにして殺すのか、頭を働かせて決めるんだろうな。
真由香の世界とは、まるで違う――――。
「真由香!」
「あ、夏侯惇さん」
声で判別すれば、ぽんと頭を撫でられる。嗚呼、やはり彼だ。少々荒いが、夏侯淵よりは丁寧だから。
前を向いたまま挨拶をすると「ああ」と短く言葉が返ってくる。ほんの少しだけ、声に焦りが見えた。何か急いでいるような気がして、首を傾げた。
「何処かにお急ぎですか?」
「あ、いや……お前が歩いているのを見かけてな。そちらは牢獄の方だ。さすがにそちらへは行かない方が良い」
「そうなんですか?」
「ああ。こちらへ来い」
腕を握られて引かれる。
真由香はそれに素直に従った。
元来た道を戻りながら、他愛ない話を交わす。ただ、夏侯惇は兵士を率いる武将。話題は基本的に鍛錬方法だったり、兵士達の成長のことだったりする。
真由香が振る話題はほとんど分からないだろうから、自分から話題を振ることは無い。それ故に夏侯惇ばかりが話して真由香が相槌を打つという会話になってしまう。
しかし、それでも楽しいと思うのが真由香である。不穏な話も勿論あるが、そこは流してしまえば問題は無かった。夏侯惇も、そう言ったことに無縁の娘であることを考慮してくれてもいるので、それも本当に稀(まれ)なことだった。
「今度、馬で遠駆けにでも行かないか」
「おお、遠駆け!」
それは唐突なお誘いだった。
光を得られぬ瞳をきらきらと煌めかせ、大きく頷く。
途端に夏侯惇は長々と吐息を漏らした。
「夏侯惇さん?」
「いっ、いや、何でもない……俺の暇な時に誘うが、良いか?」
「構いませんよ〜。お馬さんに乗れるなんて楽しみです」
多忙の夏侯惇がこうして自分の世話を焼いてくれるのは有り難く思っている。
彼らが真由香を構わない日は、散歩する以外にほとんど何もすることが無いので、話をするだけでもとても嬉しいのだ。
それが、遠駆けに誘ってもらえて、気分も急上昇。
彼女はにこにこと晴れやかな笑みを浮かべた。
夏侯惇が、その笑顔に何処か満足げな、誇らしげな顔を表情をしているとも知らずに。
「じゃあ、俺は――――」
「真由香ー!」
夏侯惇の言葉は遮られた。
真由香は顔を少しだけ上げて、声の方向を捜した。
ばたばたと騒々しい足音は急速に近付き、再び真由香の名を呼んだかと思うと肩に手を回されて身体が前に傾いだ。
悲鳴を上げてバランスが保てなくなったのを、咄嗟に真由香の腹に手を当てて支えてくれたのは夏侯惇だ。
「夏侯淵!」
夏侯惇が咎めるように呼べば彼は慌てて身を離した。
「あ、悪い。真由香。良い話があったから……」
「い、いや、大丈夫です……良い話って何ですか?」
夏侯惇に謝罪と礼を言って、夏侯淵に問いかければ、彼は喜色の滲む弾んだ声で思い出したように言うのだ。
「今から飯を食べに行こう! 美味い店を見つけたんだ」
「え、あ、はい。――――って、あれ? 飯? ご飯? もう夕飯の時間ですか」
「……気付いてなかったのか」
「全く」
夏侯惇も、夏侯淵も沈黙してしまう。
盲目であろうと、城の中を歩き回っていれば、女官なり兵士なりの会話から分かろうに……。
溜息までつかれた真由香は、しかし呆れられている理由が分からずに首を傾げる他無かった。
そして、ややあって、あっと声を漏らして走り出す。
「え、真由香!?」
「待て! 何処に行く!?」
「外出して良いか曹操さんに訊いてきます!」
「え!? ちょ、待っ――――」
真由香の耳には聞こえていないのか、彼女は生まれながらの暗闇の中曹操の部屋を目指した。
――――途中、壁に正面激突して身動き出来なくなったのは言わずもがなである。
追いかけてきた夏侯惇達には、酷く呆れられてしまった。
‡‡‡
最近、頻繁に劉備からの書状が届く。
内容は全て、猫族の村への真由香の帰還。
丁寧で柔らかな《願い》ではあれど、月に何度も送る辺り、脅しの意味も込められているようだ。猫族は余程、真由香という平凡ながらに非凡な少女に執着があるらしい。
折角送った物資の紙を無駄なことに使わないで欲しいものだ。
どう言われようと、曹操には今のところ彼女を村に返すつもりは毛程も無かった。
書状を無碍に破り捨て灯火に燃やす。
寄りついた蛾と共に燃え尽きるその様を冷めた顔して眺めた曹操は、不意に私室の外に気配を感じて首を巡らせた。
「誰だ」
誰何する。
応えは無く、扉が少々乱暴に開かれた。
ひょこっと顔を出したのは、先程書状で返還を求められた盲目の少女で。
何処か浮き足だった表情で部屋に入った彼女を見、曹操は眉根を寄せた。
真由香の顔は、赤かった。風邪でもあるまい。何かに打ち付けたように鼻を中心に赤らんでいた。
「……その顔はどうした」
「壁に全力でぶつかってしまいまして……へへ」
……呆れるべきか、怒るべきなのか。
恥ずかしそうに笑う彼女に、曹操はこめかみを押さえた。
真由香の後ろには、げんなりとした夏侯惇達がいる。恐らくは彼らがいない間にぶつけたのだろう。彼らとて、気を付けようにも四六時中彼女についてはいられない。女官も兵士もそうだ。それぞれの持ち場、仕事がある。
部屋でじっとしていろと言えばそれで解決することであれど、盲目の彼女は実は部屋にいる時の方が危なかったりする。猫族の村とは勝手が違う所為か頻繁に転んでは調度品に身体の何処かをぶつけてしまうのだ。何がどう違うのか、曹操には分からないので対処のしようは無い。最低限の調度品を置いて、そのような状態なのだから。
「名誉の負傷であります!」などとまるで酔って言動が怪しくなっていると思える頓狂な発言をする真由香に、曹操はしかし、身体の緊張が解れる心地にほんの僅かな安楽を得る。
真由香は曹操にしてみれば平和ボケをした物知らずで馬鹿な娘だ。
それ故に、彼女の前では己の闇すらも下らないように思わせる。まことに、面妖な、非力な少女だった。
自身が手放せない理由も、そこにあるのだろう。
「……それで、何の用だ」
「実は夏侯淵さんに夕飯を食べに行こうと言われまして、外出許可をいただこうと思いまして」
「却下だ」
「早っ!!」
真由香の後ろで夏侯淵ががっくりと肩を落とす。
そんな彼を見つめ、曹操は木簡を二つ程机から取った。
夏侯淵を呼べば思ったよりも低い声が出て、夏侯淵が大袈裟な程に身体をびくつかせた。
「な、何でしょうか、曹操様」
「この報告書、以前よりも増して誤字脱字が多い。今日中に書き直せ」
「え、でも、」
「夏侯淵」
「は、はい!」
ぴんと背を伸ばして、彼は曹操から木簡を受け取る。そのかんばせは青ざめていた。
ばたばたと大急ぎで戻っていく夏侯淵を、夏侯惇と共に呆れつつ見送る。真由香を誘いたいが為に急いだのが丸分かりである。
唯一、事態についていけていない真由香は首を傾げている。
「……夏侯惇、お前も手伝ってやれ。また、同じことを繰り返す筈だ」
「はっ。では、真由香を部屋に――――」
「いや、後程女官を呼んで遅らせる。彼女の夕食も、こちらに運ばせろと言っておけ」
「分かりました。では、俺は失礼します」
拱手する夏侯惇に軽く片手を上げ、真由香の肩を抱くようにして適当な場所に座らせる。腕を引くだけでは心許ないのは、これまでの経験でよくよく分かった。
大人しく座ったのを確認し、曹操は座につく。
そのまま仕事に戻ろうとすると、
「私、何かお手伝」
「要らぬ」
「また早いっ!」
盲目の身で手伝いが出来る訳がない。
夕食を終えるまで座っているだけで良いと言って聞かせた。
すると、真由香は素直に頷き、へへへと嬉しそうに笑った。
曹操は眉間に皺を寄せた。
「何だ」
「いいえ、曹操さんと二人きりでいるのは初めてだなーと思ったら何だか嬉しくて」
仲良くしたいですから。
屈託の無い、純粋すぎる笑みで彼女は言う。
曹操はそれが眩しくて仕方がなかった。
目を細め、彼女に見入る。
自然と口が動いた。
「……これから、夕食はここで取るか?」
「え? 良いんですかっ?」
真由香は驚いた。けれどもやはり、嬉しそうだ。
すぐに頷く彼女に、曹操は満足し、何処か勝ち誇った心地になった。
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