六万打企画作品 | ナノ




 ○○は物心ついた頃から無関心な娘だった。
 動物の亡骸を見ても、妹の関羽が胸を痛めるその様をぼんやりと眺めているだけだ。
 関麗の胎(はら)の中零れ落ちてしまった、他人に愛される要素が関羽に入って生まれてきたようなもの。

 そんな彼女が、猫族の中でも隅に追いやられるのは、極々自然なことだった。
 愛想の無い怖い娘など、誰も近付きやしない。
 それよりも、可愛らしくて、意志の強い――――正(まさ)しく愛される為に在る関羽に人々は集まっていく。
 見た目はそっくり瓜二つなのに、奇異なことである。

 これに関して○○は何も思わなかった。
 ただ、関羽が自分と一緒にいる時に感じる猫族達の視線が鬱陶しいな、と思うくらいだ。
 自分は心有る者として当然の何もかもが欠落している。関羽はそれを母の中で吸収した。そうやって周囲から愛される恵まれた娘に育った。

 自分は関羽とは正邪の関係。元々彼女の代わりに汚れる為の存在なんじゃないか――――世平にそう言ったことがある。
 いつか関羽が汚れなければならない時、関羽が危険に遭った時、代わりに穢れを受け、代わりに命を失うただの駒。

 世平にはキツく叱られた。けれども○○には分かっている。彼の目は、ほんの少しだけ納得していた。育て親だという遠慮から一応の否定をするだけ。

 結局のところ、自分は関羽と瓜二つの双子であろうと彼女とは違う。平和な暮らしをする猫族には必要の無い存在なのだった。


「……そんなことは無いと思うけれど」


――――彼は、困ったように笑って首を傾ける。
 窓辺に座って仄かな光を放つ偃月を見上げていた○○は、視線だけを横に滑らせ、その純白を捉えた。
 金色の眼差しは穏やかに揺れ、優しげな光を称えて。
 自分にそんな目を向けるのは彼と関羽くらいなものだ。○○にしてみれば、二人共異常だ。完全な少数派。


「○○は○○だよ」

「……」

「○○?」

「それって私の名前だったっけ」


 全然呼ばれないから、忘れてた。
 自分の名前を、一つの単語として認識するように、ゆっくりと反芻(はんすう)する。

 誰一人として○○の名前を知らない。世平すら、すぐには出ずに気まずそうな顔をする。

 猫族にとって、自分という《物》を認識するのに、○○という固有名詞は必要無いらしい。
 まあ、○○自身名前というものにそれ程の価値を見いだせないので特に気にしてはいないけれども。


「○○。せめて自分の名前くらいは覚えておいて」

「何で?」


 純粋に不思議で問いかけると、彼は痛ましげに眦を下げて溜息をつく。


「僕は、○○っていう名前が好きだよ。君のことが好きだから」

「そういうカンジョー、私には分からないな。関羽なら分かるから、関羽に言ってよ。皆関羽が大好きらしいよ。君も流行には乗っておいた方が良いと思うけど」

「……今宵の僕は、いつもの僕とは違うって分かっているだろう?」

「だから、私じゃなくて関羽がここに来れば良いんじゃないのかな」

「怒るよ」


 やんわりと、しかし強く言う彼に、○○は首を傾げた。
 彼はどうも関羽よりもおかしいようだ。
 猫族の皆とは違い、偃月の彼だけは○○を優しく気にかける。普段の彼は関羽にべったりなのに、偃月の日にはこうして○○と二人きりで話したがる。
 ○○達程ではないが、まるで表と裏みたいに正反対だ。

 ○○はそこでようやっと身体ごと彼に向き直る。


「君はおかしな人だね。どうして私と話そうなんて思うの」

「○○が好きだからだよ」

「でも普段の君が好きなのは関羽じゃないか。私を好きになる理由も無い」


 おかしな人だ――――もう一度言って、○○は腰を上げた。


「どうしかした?」

「準備しなくちゃいけないからそろそろ帰る」

「準備?」

「うん。村を出る準備」


 さらりと涼しい顔で告げた○○に彼は顎を落とした。驚きのあまり、声も出ないようだ。扉へと歩く彼女を茫然と見つめる。


「人間の世界に行くんだからやっぱ耳は切り落とすべきだよね。身を守る為にも刃物は必須だし、後は服と、数日分の食料があれば十分かな」

「○○!」

「ん?」


 彼は青ざめていた。


「どうかした?」

「本気なのかい?」

「うん。張飛ともそう約束したからね。約束は守らないと」


 約束と言っても、ただ出て行けと怒鳴られて分かったと淡泊に頷いただけだ。その時周囲が酷く狼狽えていたが、知ったことではない。
 刃物は世平の物を盗むとして、後は荷物を入れる鞄が必要だ。色んな物を詰め込むに十分な物は家の中にあっただろうか。
 考え込みながら、ひらりと手を振って部屋を出る。
 扉を閉める直前彼がまた自分の名前を呼んだが、○○には戻る理由が無いので止まりはしなかった。

――――されども。
 家を出るとぶるりと身体が震えるのだ。
 思わず身体をさすって首を傾けた。


「……来る時はこんなに寒くなかった筈なのになぁ」


 変なの。
 ぼやいて、歩き出す。
 出て行くなら皆が眠り込んだ今の時間が良い。起きている時間に出て行くなんて言ったら、関羽が騒ぎ立ててしまう。それは、少々面倒臭い。

 関羽達を起こさないように家に帰って――――といっても基本的に世平の鼾(いびき)で音が消えてしまうのだけれど――――慎重に荷物をまとめて外に出る。
 村の出口まで至って、○○はふときびすを返した。
 無言で村を見つめ、口を薄く開く。


「……じゃあね、劉備」


 偃月の彼に向けて、呟く。
 何故だろうか、そうしなければならないような気がした。



‡‡‡




――――どうしてこうなった。


「おっかしいなぁ……」


 空を仰ぎながら呟く。
 今、彼女は帝の御座す洛陽の、とある屋敷に身を置いている。
 勿論そこに彼女の意思など無い。

 元々黄巾族に襲われていた村を助け、そこに人として暮らしていた。
 猫耳を切り落とした場所が完治するまで黒い頭巾を被り、村の隅でつつがなく生きていくつもりだった筈だのに、どうしてか曹操という男に無理矢理に連れ出されてしまった。

 人生とはかくも思い通りにいかないものなのか。
 強引に馬に相乗りさせられた道中、暢気にそんなことを噛み締めていた。

 ……そんな経緯で、ここで優雅な暮らしを強要されている訳なのだが。


「混血って言ったのがマズかったのかな」


 丁度川で頭巾を取って、弛んでしまった包帯を巻き直そうと外したところに、彼は現れた。

 曹操は○○の頭を見て十三支か、と何の感慨も無く漏らした。
 それに『いや、混血』と淡泊に答えたのが間違いだったのか。

 今思えばその瞬間に彼の興味無さげな顔は一変したような気がする。
 あの時○○が混血と言わなければ普通にあの村で悠々自適に過ごせていたのだろう。
 当時のことを脳裏に浮かべながら欠伸を一つした。ごろりと廊下に寝そべって欄干から垂らした足をぶらぶらと揺らした。

 すると、視界に曹操が映り込む。逆さだ。


「ども」

「ここで寝るつもりだったのか」

「気が向けば寝てたと思うよ」


 寝たまま答えを返せば、彼は目を細める。
 その黒い眼差しをじっと見つめながら、○○は緩く瞬きした。

 ここに来て、彼は○○をいやに構う。
 部下達の前では毅然とした曹操はしかし、○○の前では変だ。目が異様、雰囲気が異様。自分に対しどんな感情を抱いているのか……思慮深い眼差しの奥には危険そうなモノが窺えた。

 混血に目の色を変えた曹操。何かしら異常な思い入れでもあるのか。
 そも、基本的に混血は生まれない。関羽と○○が双子として混血に生まれたのは奇跡の中の奇跡だ。希少価値も高いだろう。そうか、彼は好事家なのか。
 ○○は上体を起こす。また欠伸を一つして立ち上がると曹操が唐突に○○の髪を一房掬い上げた。
 関羽よりも短い髪は肩を越えるくらい。唇を寄せられれば、自然と顔と顔の距離が近くなった。

 目を伏せて髪に口付けを落とす曹操を、○○は無表情に凝視する。

 彼が顔を上げれば目が合って、こちらに吸い寄せられるみたいに顔がぐっと寄ってくる――――。


 その時だ。


「○○!!」


 はしゃいだ子供の声が聞こえてきた。
 聞き覚えがあるような、無いような――――漠然とした感覚に振り返ると、廊下の奥から真っ白な塊と、見覚えのある色合いの塊が二つ程こちらに走ってきていた。

 白は純朴な笑顔を浮かべて○○に抱きつく塊を見下ろし、あっと声を漏らした。


「これは懐かしい」


 何年振りだっけ。
 そう呟いて、いや一月振りなのかと思い出す。
 久方振りに見るその姿に、ほんの少しの落胆を覚える。
 脳裏に浮かぶのは偃月の彼だ。
 けれども今の彼は彼ではない。


「お久し振りですね。劉備様」

「どうしてここにいるの! みんな、心配してたよ」

「心配って、そんな訳ないでしょうに゛っ」

「○○! あなた耳を斬り落としてしまったの!?」


 また人に抱きつかれた。
 関羽だ。ああ、彼女も息災になさっているようで。……身体がみしみし言っています。

 ○○は、二人をやんわりと押し離し、最後の一人――――気まずそうに顔を逸らす張飛を一瞥する。


「だって、張飛が出て行けって言ったんだもの。人間の世界じゃ耳があると何かと不便だから斬り落としたんだよ」


 「意外に血が出てきたから驚いたなぁ」黒頭巾を撫でながら、○○はまるで他人事のように独白する。
 関羽は悲しげに眉を下げると、不意に眦を決して張飛を振り返った。張飛か怯んで数歩退がる。


「わたしもう張飛と口利かないから」

「えぇーっ!!」


 不平の声を漏らした彼は、がくんと肩を落とした。

 大変だねぇ、恋する男の子も。
 ぼんやりと張飛を眺めていると、また劉備が腰に抱きついてくる。
 それに、違和感を覚えて首を傾けた。
 おかしいな……この子こんなに私にひっついてきたっけ?
 いや、抱きつくなら関羽、遊ぶなら関羽だった筈だ。
 おっかしいなぁ……。

 不思議に思うけれども、その奥でくすぶるものがある。
 それが、彼は偃月の彼ではないと訴えている。
 何となくそれが不快だったから、自然を装って離す。

 と、不意に曹操が○○の肩を掴んで自分の方へと強く引き寄せた。後頭部が彼の胸板にぶつかる。


「○○。そろそろ部屋に戻れ」

「ああ、うん。分かった。じゃあ、何でいるか分かんないけど、取り敢えずばいばい」


 曹操に腕を引かれひらりと片手を振ると、関羽が手を伸ばしかけて躊躇った。

――――けれども。


「ぼくも行くー!」

「げふっ」


 三度腰に抱きつく。
 立ち止まることを余儀無くされた曹操は、忌々しそうに劉備を睨め下ろした。

 それに、何とはなしにマズいかなーと感じた○○は曹操の手を握り直し、劉備の頭に手を押く。


「劉備様。関羽達を置いてきたら駄目ですよ。私は、猫族止めてますし。関羽達のとこに戻ったらどうですか」

「やだ! ○○と一緒にいる!」


 これはしつこい。
 さて、どうしようかと考え込むと、不意に関羽が口を挟んだ。


「なら、わたし達も行くわ。張飛はこのまま帰って」

「あ、姉貴……!」

「張飛?」

「……わ、分かりました」


 悄然(しょうぜん)とうなだれる張飛を彼女は黙殺。
 劉備の手を握って曹操を、まるで敵を見るかのように強く睨むように見据える。

 その時の彼の顔は、まるで氷だった。

 ○○は、不思議そうに曹操を見上げるだけ。
 曹操の中に渦巻く物が何なのか、知りもしないのだ。



→後書き