六万打企画作品 | ナノ
風に乗って、淑やかで流麗な音色が鼓膜を擽(くすぐ)る。
竹笛を奏でる青年の後ろで、関羽はその音色に心を委ね、瞑目していた。
青年――――●●は音楽を何よりも愛している。
今彼が奏でている笛は幼い頃に病で亡くなった父親から、晩年に譲られた宝物だ。何処へ行くにも肌身離さず持ち歩く。
音楽は自分の命のようなものだと、関羽に語って聞かせた時の羅仁の顔は、こちらが嫉妬してしまうくらいに音楽に見入られた者の、夢見ているような甘美な表情だった。
●●は武よりも音を大事にする。
その為か男のくせに弱い、と男衆からは馬鹿にされて、その女顔共々笑われることもしばしばだ。
だが、それでも彼は言い返さないし、むしろ『俺は男に生まれたが、この顔から見ても分かる通り、どうやら荒事には向いていないらしい。どうも性別を間違ってしまったのかもしれないな』などと、彼らの言葉をにかやかに、朗らかに肯定するのだ。
関羽は女々しいなんて思わない。
彼は、表に出さないだけで本当は武に於いて誰よりも強い。加えて強靱な精神をしていると、世平共々認めている。
●●の父親と特に仲の良かった世平は、彼がただ優しいあまりに本気を出さないだけだと言う。関羽もこれには同意する。
「……関羽?」
呼ばれて、瞼を押し上げる。いつの間にか笛の音は途絶えてしまっていた。
不思議そうに、しかし穏やかに笑んだ●●が笛から口を離してこちらを見ていた。
金色の、慈悲深い瞳と交差し、胸の奥が熱くじんと甘く痺れた。
嗚呼、この笑顔。
わたしは、この笑顔が好き。
どれだけ時間が経っても、これは変わらない。
自分は、この笑顔に惚れたのだから。
まだ関羽が幼かった頃、森で迷子になったことがあった。
戦う力も無い小さな女児が一人道に迷えば、当然死と隣り合わせだ。足を滑らせて転落するかもしれないし、動物に襲われて殺されるかもしれなかった。
怖くて怖くて仕方なかった時、関羽は虎に襲われた。
丁度子育ての最中だった雌の虎だ。子供達を守る為に神経質になっていた虎は関羽を敵と見なし、その爪で、その牙で幼い関羽を殺そうとした。
そんな折に助けに来てくれたのが、当時まだ十歳の●●だったのだ。
父を失ったばかりの彼は、虎と関羽の間に回り込み、その辺に転がっていた木の棒で虎を迎え撃った。
爪に深々と肩を裂かれても、怯える関羽に笑顔を向けて、虎を強く見据えて威嚇した。ただただ関羽を守る為に、虎を威圧し――――怯ませた。
虎が逃げ去った後も、彼は気丈だった。だらだらと血を流し続けていたのに、真っ白な骨が見え隠れしていたのに――――脂汗を顔一杯に浮かべ、それでも穏やかな笑みで関羽を慰め続け、村まで一緒に戻ってくれたのだ。
後々聞いた話では、●●はそれから数週間は寝床から起き上がれなかったそうだ。気が立った虎に立ち向かうなんて芸当、普通ならあの年では無理だ。だのに、父親が亡くなって傷心していた筈の少年は、混血の自分を守る為に、混血の自分を気遣って、気丈に振る舞い続けた。
他の少年達にそんな真似が出来るだろうか。答えは否だ。出来る筈がない。
彼は強い。
ただ、傷つけるよりも音楽を純粋に愛でていたいから、それを隠しているだけ。
それを知っているのは自分と世平だけだ。それがほんの少しだけ誇らしくもあり、たったそれだけのことでも幼稚な独占欲は満たされる。
「今日は、よく考えるね」
「え……そうかしら? どうしてそんな風に思うの」
首を傾けてみせると、彼は笑声を漏らした。
「見えなくても分かるよ」
関羽は俺の妹みたいなものだからね。
少しだけ、誇らしそうに言う彼に、関羽の胸は痛んだ。
……そうじゃない。
そうじゃないの。
わたしが欲しいのはもっと違う言葉。
確かに嬉しいけれど、わたしはあなたのことを、あなたのように思ってはいないのよ。
ねえ、どうして気付かないの?
わたしはあなたのことがこんなにも好きなのに。
あなたは優しくて、優雅。
村で生まれたとは思えない気品を備えていて、博識で――――よしや戦えないと思っても、彼は女性を惹きつけてやまない。
わたしがどんなに苦労しているか分からないでしょう。
わたしがどんなに尽くしているか分からないでしょう。
わたしはこんなにあなたのことが好きなのに。
あなたにとって私は可愛い《妹》で。
いつまで経ってもこの距離は縮められなくて。
もどかしい。
苦しい。
気が狂いそう――――。
狂ってしまえたら、楽なのに。
でも、破壊が怖くて何も出来ないでいる。
「今日はもう帰ろうか。もうすぐ、一雨来そうだ」
「そうなの?」
遠くの空を見張るかし、●●はまったりと言った。
だが空は青い。とても雨が降るような天気だとは思えない。
関羽は●●の隣に立って、彼方を見据えた。
……、分からない。
眉間に皺を寄せると、●●が屈んで目線を合わせた。
自然と顔と顔の距離が狭まって、どくりと大きく心臓が跳ねた。ばくばくと早鐘を打つこの胸が、●●に知られてしまわないだろうか……そんなことを考えてしまった。
「ほら、あっち。あっちの空をよく見てみると良い。黒い雲が見えるから」
「え、ええ……ええと――――あ、もしかしてあれ……かしら?」
「ああ、あれだ」
「本当……雨雲だわ。●●、よく見えたわね。わたしじゃ目を凝らさなければ分からないわ」
「そうだろうか……」
姿勢を戻し、手を庇(ひさし)代わりにしながら僅かに見える雲を見つめる。
かと思うと関羽の頭を撫でてきびすを返すのだ。
「さあ、帰ろう。お前が雨に濡れて風邪を引いてしまったら世平さんに怒られてしまう」
彼はいつも笑みを絶やさない男だ。
女々しいと男達は馬鹿にする。
けれど、関羽はこの笑顔が大好き。この笑顔と笛の音色が、彼の優しさを如実に表しているのだ。
目元を和ませて関羽を振り返る●●に、関羽はほうと熱い吐息を漏らす。
●●に名を呼ばれ、引き寄せられるように足を踏み出した。
隣に立って、数度躊躇った後に彼の腕に己のそれを絡める。
●●の腕は服に隠れているが、実際触ってみると張飛並に筋肉がついている。何処か、自分達の見えないところで彼なりの鍛錬をしている証だ。
この腕で抱きしめられたら、どんなに幸せだろう――――。
「昔から、関羽はくっつきたがるな」
「……嫌?」
上目遣いに見上げると、彼は緩くかぶりを振って否定する。
「いいや。妹に甘えられて嬉しくない兄などいやしないさ」
頭を撫でられる。
安堵は無い。
悔しさが胸を締め付けた。
どうして分かってくれないんだろう。
まさか一生、気付いてくれない……?
嫌だ。
ずっとこんな辛いの、耐えられない。
でも怖い。
壊してしまうのが、恐ろしい。
壊れたらきっと直せない。きっと戻れない。
どうしたら良いのだろう。
このまま嫌。
このままの方が良い。
ずきずきと痛む胸に、目頭が熱くなる。奥歯を噛み締めて、涙だけは流すまいと耐えた。
そんな関羽に、●●が気付かぬ筈もなく。
「関羽? どうかしたかい?」
「……」
唇を真一文字に引き結び、関羽は俯き加減に首を左右に振る。
●●は頬を人差し指で掻いた。
歩みだけは止めず、暫く関羽の様子を眺め、首を傾ける。
「何か、嫌なことでもあっただろうか。今日は朝からずっと一緒にいたから、原因と言えば俺になるんだろうな……はて、関羽に何かしてしまったかな」
顎を撫でながら記憶を手繰る●●に、関羽はあなたの所為よと心の中で恨み言を言う。
こんなに苦しいのも、こんなに痛いのも、皆みんなあなたの所為。あなたを好きになった所為。
諦められないのも、あなたが魅力的すぎる所為。
皆、あなたの所為なのよ。
「……●●」
「ん?」
つかの間躊躇して口を開く。咽から押し出した声は堅く強ばり、震えていた。
「……あ、あなたは……、あなたは、わたしのことをどう思っているの?」
壊れないで。
どうか、壊れないで。
壊したくない。
だけど、でも――――《妹》だとか、そんな返答は嫌なの。
わたしは●●に、女として、見て欲しい。
意を決して顔を見上げた関羽は瞠目した。
●●は悲しげに笑っていた。
がら……頭の中で何かが崩れたような気がする。
「俺には、昔からずっ想っている女性(ヒト)がいるんだ」
がらがらがら。
崩れる。
関羽の顔から視線を逸らし、●●は前を見据える。
「けれど、その人はもうこの世にいない。いなくても、好きで好きでたまらないんだ。きっと、俺は想い続ける」
「●●……っ」
――――止めて。
それ以上言わないで。
「だからね、お前には」
好きなの。
私はあなたのことが好きなの。
「《無くなることの無い》恋愛をして欲しいんだ」
頬を撫でる手はかさかさとしていて、硬い。それに女顔とは裏腹にとても大きい。
大好きな手。その手に撫でられることが、幼い頃から関羽だけの特権だった。
けれど。
今はそれがとても疎ましい。
「俺にとって、関羽は《妹》だ」
穏やかな、綺麗な笑顔で。
悲しげに。
彼は優しい毒を吐く。
わたしの、為に――――……。
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