六万打企画作品 | ナノ




 幽谷は、書庫にて木簡を読んでいた。
 側には一人の草兵が、難しい顔をして木簡と、武官に頼み込んで借りたとある土地の地図を交互に見比べている。
 以前鍛錬を申し込んできた彼は、今度は兵法についてご教授願いたいと頼み込んできたのだった。
 実直な彼は、自分でも何か曹操の役に立てるのではないかと鍛錬、勉学に躍起になっている。

 幽谷も、強く乞われて邪険にも出来ずに自分の知識内で役立つことがあればと了承した。
 木簡から目を離し、草兵を横目に見やる。


「どうですか」

「……この木簡の記録と照らし合わせて状況を考えてみろと仰いましたが……なかなか難しいです」

「そうでしょうね。実際、敵軍の動きは自軍とは違う。自軍のそれも難しい。ですがその上で双方の被害の予測も立てて下さい。その書簡は、こちらの軍師の方が考え実際に採用された策だそうです。被害の方も記載されておりますが、見てはいけません」

「はい」


 こんな教え方で良いのだろうかとは、自分も分からない。
 自分は暗殺が主流であって、兵法を使う経験は決して多くない。むしろ、まだ若輩と言っても良い。
 おまけに感覚も普通の人間と違うこともあるから、どうも分かりにくい部分もある。
 大して役に立ちそうには思えないのだけれど……。

 幽谷は数度瞬いて、思案に没頭する草兵の隣に立った。横から木簡を覗き込んで、少しは判断材料になるだろうかと自分の考えを離そうと口を開いたその直後。

 扉が開かれ、誰かが入ってきた。
 首だけを巡らせて見やれば、夏侯惇がこちらを見て固まっている。隻眼は丸く見開かれていた。

 草兵が慌てて立ち上がって拱手(きょうしゅ)する。

 幽谷も、やや気まずい思いはあるものの、姿勢を正して拱手した。


「資料をお探しですか?」

「……」

「夏侯惇殿?」


 幽谷が不審がって歩み寄ると、ぐぐっと彼の眉根を寄せた。草兵と幽谷を交互に見て、


「何故お前達がここに?」

「兵法の指南を頼まれましたので。ここで行った方が木簡を持ち歩く手間が省けると思ったのですが……何か不都合でもございましたか?」

「……お前は、暗殺専門だろう」

「一応の知識はございます。お受けする前にそれも申したのですが、彼がどうしても、と」


 草兵を振り返ると、彼は背筋をぴんと伸ばして、声を張り上げた。


「お、俺、一兵士として、幽谷殿を心から尊敬してます!」


 俺も幽谷殿や夏侯惇様みたいに、お仕えしている人のお役に立ちたいんです!!
 熱の籠もった声で、彼は語る。

 それを黙して眺めていた夏侯惇は不愉快そうに唇を曲げた。
 ……もしかして、曹操軍の兵士が私に頼ったことが気に入らないのかしら。
 幽谷は知識はあれど、やはり暗殺専門だ。戦の経験では夏侯惇に劣っているだろう。
 それに、先述した通り幽谷の感覚には人間のそれと言えない部分もある。
 そのことで夏侯惇に不満があったのかもしれない。

 出過ぎた真似だったろうかと、謝罪をしようとすると、夏侯惇が動いた。


「ならば、俺も見てやろう」

「え……本当ですか!?」


 不機嫌そうな夏侯惇の様子など気にもせずに、喜色満面の草兵は声を弾ませてお願いしますと頭を下げた。

 途端、夏侯惇が苦虫を何匹も噛み潰したような顔になる。

 ……私は不要だろうか。
 そう思って静かに退出しようと扉にかけると、開ける直前に夏侯惇に呼び止められた。


「お前もいろ。今後の為にもお前の意見も聞いておきたい」

「……私などの意見聞いたとて、あまり役には立たぬかと存じますが」

「良いから、いろ」


 一際低くなった声音に、幽谷は怪訝に首を傾ける。逆らわない方が良いかと夏侯惇の隣に立った。

 草兵が、幽谷が指示したように自分なりに考えて布陣を思案し、石を置いていく。
 その途中途中で夏侯惇が叱りつけ、何がどう悪いのか、そのまま置けばどんな結果が起こるのか、子細を語って聞かせた。ままに、幽谷にも意見を求めた。

 草兵はひたに夏侯惇の指摘を受け入れ、それを踏まえて懸命に考えて石を置いては戻し、思案を繰り返した。

 この草兵、相当忠誠心が強いようだ。
 兵士の身分でありながら、主君の為にここまでしようとする者はなかなか見られないだろう。
 これもまた、曹操の魅力故なのか……。
 釈然としないものを感じつつ、彼に感じ入る。

 それが夏侯惇も嬉しいらしい。終盤になると指南にはかなりの熱が入っていた。……ただ、それにしても些か厳し過ぎるような気もしたけれど。

 夏侯惇が合格点を出す布陣が完成したところでひとまずは指南を終了とし、また別の日に違う土地の地図で課題を出すと、まるで先生のように告げた。
 草兵もこれを喜んで受ける。将軍に直々に指南されることが嬉しくて仕方がないようだ。木簡を片付ける後ろ姿から見ても浮き足立っていた。

 ……自分も強制参加なのだろうか。
 笑顔の草兵を眺めながら、幽谷は細く吐息を漏らした。
 と、突然草兵がこちらを向いたのに慌てて表情を引き締めた。


「幽谷殿も、その時は何卒お願いします!」

「……別に構いませんが」


 拱手をし、片付けを終えたからと草兵は兵舎へと足早に戻っていく。

 地図は後で夏侯惇が武官に返してくれると言った。なら、自分は部屋に戻ろうか。
 そう思っていると、不意に夏侯惇が隣に立ち、


「時間はあるか」

「え? ええ」

「なら少し付き合え」


 幽谷は首を傾ける。


「それは構いませんが……何かご用でも?」

「用が無ければ駄目なのか」

「いえ、そういう訳では」


 夏侯惇はさっと背中を向けてしまう。そのまま早口に池で待っていろと言って、大股に立ち去ってしまった。

 彼の背中を見つめたまま、幽谷は緩く瞬いた。



‡‡‡




 池へ向けて歩いていると、廊下で女官とすれ違った。
 すれ違ったと言っても、相手はまだ自分のことを凶兆だと思っているから、大きく距離を置かれて横を通り過ぎられた。

 ああ、まだあちらの方がこの世界では《普通》なのだ。
 改めて実感する。
 ……だからと言って、何の感慨も浮かばないのだけれど。

 役目を終えれば自分は消える。
 自分を四霊と知っている人間は少ない。これからも理解されることは無いだろう。幽谷が消えるとすれば、やはり凶兆が去ると言うことなんだろう。
 そして、そのまま幽谷の記憶は消し去られる。……夏侯惇の記憶からも。
 そのように、恒浪牙にしてもらう。
 関羽がもう自分のことで苦しまないように。
 きっとそれが一番のこと。

 幽谷は足を止めた。
 目を伏せて沈黙する。


「この世では、如何に天仙の人形であろうと凶兆……それは絶対に変わらない」


 言い聞かせるように、呟く。
 その時だ。


「天仙?」


 不意に聞こえた声にぎょっと首を巡らせた。
 丁度幽谷の右――――謁見の間に続く廊下と幽谷の歩いている廊下が合流する地点にいたのが見知った姿であることに、ほっと息を漏らした。


「……ああ、夏侯淵殿でしたか」


 拱手する幽谷に、夏侯淵は怪訝そうに顔をしかめる。

 最後まで聞かれてしまっただろうか。上目遣いに彼の様子を窺う。


「天仙が、何なんだ?」

「……いえ、恒浪牙が、天仙になってもおかしくないと以前聞いたのが、未だに信用出来なくて」

「ああ、そんなことか。オレは、お前のような奴に地仙が肩入れすることの方が信じられんがな」

「……確かに、言われてみればそうですね」


 鼻を鳴らされる。
 夏侯淵は四凶や四霊など関係なく幽谷を酷く嫌悪する。
 彼は、世の中そのものを誰よりも表している人物でもあった。

 夏侯淵のように露骨に嫌悪感を示す人間がこの場にいることは、幽谷にとっては幸いなのかもしれない。
 夏侯惇のように態度が軟化した人間ばかりになると、自分が凶兆と疎まれていることを忘れてしまうかもしれないから。
 そういった意味では、彼も幽谷にとっては有り難い存在ではある。


「夏侯淵殿は、曹操殿に強い忠誠心をお持ちですね」

「は? 何を今更……」

「もし、ご自身の感覚では受け入れられないことが、曹操殿の身にあったとして、あなたはどうなされますか?」


 そこで、夏侯淵の眉間に皺が寄る。
 けれども幽谷が真っ直ぐ彼を見つめると、不愉快そうながらに答えてくれた。


「別にどうもしない。オレは曹操様について行くだけだ」

「……そうですか。分かり切ったことでしたね。申し訳ありません」


 彼らの忠誠心は真っ直ぐ、澱みが無い。
 幽谷は頭を下げて謝罪する。

 夏侯淵は怪訝に顔を歪めて幽谷を見下ろす。

 そんな時だ。
 ばたばたと騒々しい足音が聞こえてくる。後方からだ。

 振り返って確認してみるとそれは夏侯惇で。
 彼は幽谷の腕を掴むと夏侯淵から離すように強く引いて、幽谷が元来た道を戻り始めた。

 これには幽谷も夏侯淵も驚き、戸惑った。


「あ、兄者!?」

「すまない、夏侯淵。少々幽谷を借りるぞ」


 何処か焦っている風情の夏侯惇は、何処に行くのかと思えば彼自身の部屋へと幽谷を押し込むように入れた。有無を言わさず寝台に座らされた。


「あの……?」

「薬売りが捜していたぞ。単独行動は禁じられていたそうだな」


 腕組みし正面に仁王立ちされる。
 叱りつけるように強い口調で言われ、幽谷はうっとなって視線を下に落とした。


「いえ……朝彼が部屋に訪れるのを待って、一言申し出るつもりだったのですが、なかなかお出でにならなかったので、つい」


 夏侯惇が嘆息する。


「……後程、薬売りがここに来る。小言を覚悟しておいた方が良い」

「それは、出ようとした時点で覚悟はしています」


 それでも、外を歩きたかったのだから仕方がない。
 幽谷は目を伏せ、迷惑をかけたことを謝罪する。


「別に迷惑だとは思っていない。むしろ、俺達の知らぬ間に犀煉に殺される機会を作られることの方が気が気でない」


 それは、何故?
 問おうとして止めた。自分が返答に何を望んでいるか分からなかったから。
 開いてしまった口を誤魔化すように、話を変えた。


「ところで、あの時夏侯淵殿に声をかけずにいて良かったのですか? 驚かれておられたようですが」


 途端、夏侯惇は顔を歪めた。幽谷から、さっと視線を逸らしてしまう。


「……いや、あれは」


 言い澱む。
 そう言えば、池で夏侯淵と会った時には彼は随分と機嫌が悪かった。

 もしかして――――。


「私のような者が夏侯淵殿と話をするのが気に障りましたか?」

「違う」


 夏侯惇は即答した。
 では、何故?
 問うと、苦虫を噛み潰したみたいな顔して黙り込んでしまう。


「夏侯惇殿?」

「……お前は、何も気にしなくて良い」


 そう言って、隣に座り込む。

 幽谷はその近さにたじろぎ少しだけ距離を取った。

 夏侯惇はそんな彼女を横目に凝視した。彼女の何かを探るように。
 そうして、まるで自身に言い聞かせるみたいに。


「お前と砂嵐は、違う筈だのにな」


 静かな言葉が、幽谷の胸に深々と突き刺さった。
 夏侯惇が想うのは砂嵐だ。
 その上彼は、砂嵐が幽谷であることなど知らぬ。ただ、幽谷が砂嵐という娘を救う為に一時的な繋ぎの役割を果たした、それだけだと信じ込んでいる。

 その現実は容赦なく、幽谷の心を抉る――――。



→後書き