曹操軍




 ぱたぱたと誰かが駆けていく。

 一人の兵士が怪訝に振り返ってぎょっとした。

 それから、別の兵士も同様に目を丸くし、顎を落とした。
 かと思えば青ざめて、それぞれ慌てて彼女に駆け寄るのだ。


「待て! 待て真由香殿!!」

「そちらは壁で、ぶつかってしまうぞ!!」

「あれっ」


 兵士達の制止に足を止めた彼女――――田原真由香はきょとんと振り返って首を傾けた。
 この城にはあまりにも不釣り合いな愛くるしい少女は、焦点をさまよわせた。

 最初に気付いた兵士が近くに寄って肩を叩いて場所を知らせると、そちらに顔を向ける。

 田原真由香という少女は、全盲だった。
 良家の姫でもない、武将でも何でもない――――否、それ以前に彼女にまつわる情報は、本人以外からは全く得られない。
 何処の生まれかも分からない彼女は曹操自らに手を引かれて連れて来られた時、奇怪な身形(みなり)をし、不可思議な持ち物を所持していた。二胡に似ているが平たい瓢箪のような形をした楽器、奇怪な素材で出来た正方形の妙な塊、面妖な手触りの布――――取り上げたら切りが無い。

 怪しさそのものだったこの少女を、この城で面倒を見ると決めたのは曹操自身だった。
 曹操の客人として滞在することになった彼女は、最初こそ風当たりは強かったものの、その鷹揚な性格と不可思議な感覚から、徐々に徐々に兵士達の中に馴染んでいった。……馴染んでいったと言うよりは、周囲が放っておけなかっただけとも言えるが。


「壁、ありました?」

「そのまま行けば確実にぶつかるぞ……と、真由香殿。その猫は?」


 しっかりと抱かれた子猫を見下ろし、眉根を寄せる。
 にゃあと小さく鳴いた子猫は真由香の胸に顔を擦り寄せて、左の前足で耳をさする。

 よくよく見ると、子猫も彼女の手も泥と血で汚れてしまっていた。

 何か遭ったのかと焦って問いかければ、真由香はその子猫を撫でながら、口角を弛めた。


「さっき、町を出た時に見つけたんです。親猫が近くで亡くなっていたので、放っておけなくて。あ、ちゃんとお墓も作ってきたんですよ」


 胸を張って言う彼女に、兵士達は嘆息する。

 また、黙って城下を出て行ったのか……。
 あれだけ口五月蠅く一人で城下を出ていけないと言われているのに、何故か彼女は一人で何処へでも行こうとする。大丈夫だという意思表示なのだろうけれど、大概迷ったり野盗などに拐かされそうになったりとして夏侯惇達に小言を言われている。

 それでも止めないのは、何かしらの彼女の意地なのかもしれなかった。

 女官達から過保護な扱いを受けていることに複雑な思いを抱いていると分かっているので、兵士達も強くは咎められなかった。

 ――――が。


「……成る程な」

「道理で城下を捜してもいない訳だ」


 それは地を這うが如き低い声音であった。
 抑え込まれていても分かってしまう程の怒気を孕み、地獄にでも引きずり込んでしまうかと思うくらいに深い怨嗟も込められたその二つの声に、真由香はざっと青ざめた。

 兵士達も途端に居住まいを正して彼らに向き直った。


「か、夏侯惇様、夏侯淵様。今まで城下におられたのですか」

「ああ。曹操様の客人の行方が知れなくてな」

「お一人で無事に戻られたようで何よりだ」


 刺々しい。
 これは小言では済まない。
 兵士は顔を見合わせて苦笑を浮かべた。

 そうして真由香を振り返り――――。


「あっ」


 直後に真由香は逃走を図った。
 が、すぐに夏侯淵に頭を鷲掴みにされて捕獲された。

 生粋の武人の彼らに、全盲の真由香が敵う筈もない。
 それに、下手をして倒れたところ、一番の被害が行くのは子猫だ。


「いだだだだだ! 割れる! 頭蓋骨割れます!! ばきぐしゃって、べちゃにちゃってなります多分、多分!」

「知るか! お前は毎回毎回オレ達に要らない心配をかけやがって……!」


 二人の後方では夏侯惇がしきりに頷いている。


「さささ殺人! 殺人事件が起きますからーっ!!」

「いっそ頭を割った方が……」

「物騒な発言出ました!! 誰か、誰か助けて!!」

「五月蠅い!!」


 真由香の悲鳴が更に大きくなる。
 手を洗った方が良いだろうし、そろそろ止めた方が良いかと兵士が口を開いたその時である。


「……何をしている?」

「あ、曹操様……」


 夏侯淵の手が弛んだ瞬間に真由香は素早く逃げる。
 大きく距離を取っていつでも逃げられるようにした。

 竹簡を抱えた曹操は周囲を見渡し、眉根を寄せる。だが真由香の腕に抱かれている子猫と、その両手の汚れを見て納得したように目を伏せた。


「真由香……また城下を出たのだな」

「はい! ほら、にゃんこです、にゃんこ!」


 曹操なら怒られないだろうと思ったらしい彼女は曹操に子猫を抱えてみせる。
――――が、そちらは柱で、曹操は愚か人もいない。

 曹操は溜息を漏らした。面倒なので正しはしないが、子猫についてははっきりと言ってやる。


「捨ててこい」

「えっ」


 真由香は柱に向かって目を見開き、しゅんと肩を落とす。さすがに夏侯惇が向きを正してやった。


「で、でも、お母さんは亡くなってましたし……あの、私が面倒見ますから!」

「目が見えないのにか?」

「うぐ……」


 眉を下げて目を伏せる。
 しかしすぐに瞼を上げて曹操を説得しにかかった。


「でも、でも……独りぼっちは辛いものなんですよ。お母さんとお父さんがいないのは……本当に」


 そこで、夏侯惇が声を漏らした。
 元々真由香は孤児だ。母親に捨てられたことを悲観視していないにしても、色々と思うことはあっただろう。
 里親が自分を実子のように可愛がってくれることに、多大な感謝を抱いていると、嘘偽り無い笑顔で語っていたのは記憶に新しい。

 曹操もそれを知っているからだろう、また吐息を漏らした。何かを思案するように目を伏せて黙り込む。

 真由香はそれでも必死に言葉を尽くす。的外れな言葉が混じっているのは真由香なので仕方がない。次第に話が逸れていくのも真由香なので仕方がない。
 それに待ったをかけるように、曹操は唐突に真由香の頭を鷲掴みにした。


「はれ?」

「世話をする以上は徹底しろ。分かったな」

「……っ、わ、分かりました――――っていだだだだだだ!?」


 先程夏侯淵にされたように力を込められて悲鳴が上がった。


「ちょ、痛い痛い痛い!! 痛いです!! 頭壊れる!!」

「……夏侯惇、浴堂へ連れて行け。子猫共々、洗わせろ」

「…………はっ」


 最後に爪を立てて下に押し、くるりときびすを返す。何度目かの嘆息の後、足早に歩き去った。
 恐らくは、真由香に甘い自分に呆れているのだろう。実際、彼が一番真由香を甘やかしている。

 兵士達は顔を見合わせ、笑い合う。己の職務に戻ろうと夏侯惇達に拱手して歩き出した。


「……夏侯淵。お前は女官達を呼べ」

「分かった。だが……本当に甘いな。曹操様《も》」


 夏侯惇は肩をすくめて見せた。
 そうして、真由香の手を差し出した。

 けれども真由香はその手を取ろうとはしない。


「どうした?」

「いや、私手汚れちゃってますし……」

「ああ……別に構わん。猫をしっかり抱えておけ」

「了解です」


 真由香の小さな手を握れば控えめに握り返された。
 歩き出せば夏侯淵も女官を呼ぶ為別方向へと駆け出す。

 それから暫くし、ふと真由香が声を張り上げた。


「あ、そうだ!」

「何だ」

「夏侯惇さんもお風呂で洗えば良いんですよ」

「は――――」


 一瞬何を言っているのか分からなかった。
 暫し時が立って、赤面した。
 直後に真由香の頭に拳骨を落とし、足を早めた。


「何を言ってるんだ貴様は!!」

「えっ、だって私がお風呂に入る前に手袋だけでも洗って行けば良いじゃないですか!」

「……っ」

「ぁいったーっ!!」


 側を通りかかった女官が、ふっと小さく噴き出した。



●○●

 輪廻様リクエスト、空蒼でif、トリップ先が曹操だったら、です。

 夢主ににゃんこと言わせることが出来たので私としては大満足です(真顔)それ以外に語ることはありません……いや、すみません沢山あります。
 曹操軍に引き取られた直後は転ぶわ物壊すわ発言が分からんわで夏侯惇達からよく叱られていましたという設定です。……うん、こりゃ別の意味で警戒しますわな。

 彼女の前では戦の話はしないようにしてるんだろうなあ。



 輪廻様、今回の企画にて四万打のリベンジをさせていただきまして本当にありがとうございました!! 気合いを入れて書かせていただきました。
 気に入っていただければ幸いです。

 毎日ご訪問下さっているとは、私も気合いが入ります。
 これからも毎日更新を続けられるよう頑張って参ります\(^o^)/



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