張蘇双




 真由香が誰にも言わずに一人で出歩くのは、今に始まったことではなかった。

 真由香の不在に最初に気が付いたのが関羽や張飛などであった場合は大騒ぎになる。そうして村総出で捜索するなんてことも屡々(しばしば)だ。……まあ、一度だけそう高くない崖から落ちて、手首を挫いたという事故があったのでそれも無理のないことではあるが。

 けれども、彼は思う。
 彼らは真由香が自分達の知らないところで元の世界に戻ってしまったのではないかと。
 だからこそ、姿が見えないだけで不安を感じてしまうのだろう。

 不在の家を出た蘇双は、ふと空を見上げて眉根を寄せた。
 だいぶ近い空がどんよりと暗い。これは一雨来そうだ。驟雨(しゅうう)だろう。
 なんて間の悪い天候だ。

 蘇双は駆け足で自分の家に戻り、外套を抱えて森に向かった。
 真由香が行きそうな場所と言えば、趙雲に案内してもらった断崖だ。そこが一番のお気に入りのようで、一人でも行けるようにと奮闘している。それで行方不明になりかけることも多かった。

 また何処かで道を逸れていなければ良いのだけれど――――。

 嫌な想像は、避けた。
 蘇双もまた、そんなことはあって欲しくなかったから。


「……いた」


 幸いにも断崖よりずっと手前。
 岩に座り込んで右の足首をさすっている真由香の姿があった。
 足以外は何ともない姿に、こっそりと安堵する。

 彼女の側には、趙雲の背丈程の深さの溝があり、大きな岩がごろごろと転がっている。誤って足を滑らせれば、運悪く頭を強打してそのまま死亡していたかもしれない。
 それを考えると足を挫いた程度で良かったけれど、怪我をしたというのはいただけない。

 蘇双ははあと嘆息して真由香に歩み寄った。


「真由香。何やってんの」

「あ、蘇双さん。いえ、実は転んじゃって」

「見れば分かるよ。挫いたの?」

「ぐぎっと景気良く」

「馬鹿にしてるの?」

「いひゃいれす」


 胸を張って言うことではない。
 少々いらっと来たので頬を引っ張ってやった。意外に柔らかく、良く伸びる。

 どのくらい伸びるか、好奇心に駆られて力を込めてみる。

 当然真由香から妙な悲鳴が上がった。


「いひゃひゃひゃひゃ! いひゃい、いひゃい!!」

「何言ってるのか全然分かんないね」

「ひゃんっ!!」


 思い切り引っ張って解放してやれば頬を押さえて身体を曲げる。低い呻きが聞こえてくる。

 相変わらず、面白い反応を見せる。
 だからこそからかい甲斐があるのだ。


「で、そろそろ通り雨が来そうだから村に戻った方が良いよ」


 空を仰げば、梢の隙間からどんよりと重たそうな雲が覗いている。今にも降り出しそうだ。

 真由香は不思議そうに首を傾けるが、すぐに納得したように掌に拳を落とした。


「あ、道理で空気の匂いが変わったと思った!」

「……たまに真由香が酔っ払いなんじゃないかって思うことがあるよ」

「私お酒飲めないよ?」

「……ああ、うん」


 真面目に返されると少し困る。
 蘇双は苦笑し、真由香の前に屈み込んだ。
 彼女が先程まで撫でていた足首は赤く腫れ上がっていた。これは、結構酷いようだ。


「雨が降る前に戻って手当をしよう」

「あ、うん。……っと」

「ちょっと待った」

「なうっ」


 立ち上がろうと岩を降りようとした彼女の額をすかさず叩く。ぺちりと良い音が出た。
 額を撫でる真由香に頭から外套を被せ――――奇声が上がったが無視した――――背中を向けて屈み込んだ。


「ボクが負ぶっていくよ。外套は雨が降った時に備えてだから、絶対に落とさないで」

「うん。分かった。でも大丈夫? 私結構重いけど……」

「ボクより重そうだけど多分大丈夫」


 間。


「すいません世平さんか趙雲さん呼んできて下さい!」

「もう遅いよ。ほら、途中で落とすかもしれないけど取り敢えず乗って」


 脹ら脛を軽く叩いて促せば、彼女は渋々と、慎重に蘇双の背中にのし掛かった。
 真由香はさほど重くはない。蘇双でも簡単に背負える。

 それでもわざとよろけつつ立ち上がると真由香は大仰に慌てだした。本当に途中で落とされると思ったのか自分で歩くと訴え始める。
 あまりにも五月蠅いので近くに沼があるからそこに落とそうかと脅しをかけると、途端に大人しくなる。実際、この近くに沼は無い。真っ赤な嘘だ。
 目が見えたとしても信じてしまうだろうから、余計に面白いし、真由香が盲目であることに否定的にもならない。

 くすりと笑えば、真由香はきょとんと首を傾けた。


「蘇双さん?」

「何でもないよ」


 背中に密着する真由香は温かい。
 この温もりは生きて、この世界にいる証だ。
 違う世界でも、今彼女は確かにここにいて、蘇双に触れているのだ。
 それが、とても嬉しい。

――――と、その感覚に水を差すが如く。
 鼻先に水か落ちてきた。

 雨だ。

 それはすぐに激しくなり、強く枝葉を打ち始めた。
 叩きつける無限の雨粒に蘇双は舌打ちする。これじゃあ外套があってもすぐにずぶ濡れになってしまう。


「真由香、少し走るけど良い?」

「うん。……あ、でもちょっと、待って」


 「ごめんね」と一言謝罪して彼女は外套を片手で前へと引っ張った。蘇双の頭を覆い、庇のようにする。
 片手で蘇双の首にしがみつくとどうしても不安定だ。走れば落下してしまうかも知れない。

 自分は良いからと言ったけれど、彼女は聞いてはくれなかった。
 蘇双の襟を掴んでいた手はぐっと伸びて肩の服を握り、真由香の顔が側頭部に接近する。
 咄嗟に振り向きかけた蘇双はその近さに驚いて慌てて顔を正面に向けた。触れようと思えば簡単に触れてしまう位置に真由香の唇があった。それだけで心臓が爆発するくらいの衝撃である。


「ちょ、近すぎ……っ」

「え? でもこうしないと蘇双さんが濡れるし……」


 目が見えないからなのか、はたまたそういったことに疎いのか。
 全く以て平然と、むしろ不思議そうに言うものだから、舌打ちが漏れてしまう。


「え? 舌打ちっ?」

「……ああもう! 走るよ!」

「わ……っ」


 蘇双は真由香を抱え直して駆け出した。

 真由香が驚いたような声を上げた。


「は、速っ」

「我慢して!」

「はい!! ……って、あれ? 何か顔赤い……?」

「見間違い!」

「はいそうですねすみません!」


 嗚呼、らしくない。
 誰の所為だと真由香に噛みついたとて、彼女に理解出来る筈もない。

 走りながら、蘇双は大仰に溜息をついた。

 さっきまでは何てことは無かった筈の背中の温もりが、今はただただ無性に恥ずかしかった。



●○●

 悠様リクエストです。
 空蒼、蘇双夢になります。
 ……が、切なさが何処かに行きました。うぅ……。

 けど、実際いつ戻るか分からないですよね、夢主。
 ある時ぱっと姿を消してしまうことも有り得ますし、やっぱり不安になってしまうと思います。

 そして、この話では敬語でなくなってます。もう少し時間を進めたくらいを想定しているので。



 悠様、今回も企画に参加して下さってありがとうございます。
 また、質問につきまして、ご迷惑をおかけしてしまったこと心よりお詫び申し上げます。

 勿体ないお言葉、本当にありがとうございます。
 悠様のお言葉のおかげで、これからももっともっと頑張れそうです。微力だなんてとんでもありません、私にとっては大きな力となります。
 こちらこそ、悠様や悠様のように温かいお言葉を下さる方々には、何度お礼を申し上げても足りないくらいに感謝致しております。

 リクエストいただいた話、お気に召していただければ幸いです。
 蘇双は確かに夢主の世話を焼いていますね。趙雲と同じくらい頻繁に様子を見に行っているんじゃないでしょうか。
 今回、何処までも鈍くて無自覚な夢主と純情な蘇双が書けて楽しかったです。(´∀`)

 まことに、ありがとうございました!



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