夏侯惇




『え、だって皆さんこの世界に生きているじゃないですか』


 さも当然のことのように、まるでこちらの感性が不思議であるかのように、その盲目の少女は言った。




‡‡‡




 夏侯惇は、猫族の村に向かっていた。
 理由は、猫族に拾われたと言う人間の少女の様子を見る為だ。

 何処から来たのかも、何処で生まれたのかすら分からない盲目の少女、名を真由香。

 以前曹操に従って猫族の様子を確認する為に訪れた際劉備に相談されたのが、彼女との初めての出会いである。
 盲目であるが故に猫族の異質さを知らないのかと思ったのはつかの間だ。真由香という少女は猫族がどんな種族であることをちゃんと知っていて、その上で趙雲と同じく友人のように接しているとすぐに知れた。

 怪訝に思った曹操が、猫族が恐ろしくないのかと問いかけると、真由香はきょとんとして答えた。

 同じ世界に、同じように生きているではないかと。

 何てことも無い風情の彼女に、むしろ曹操や夏侯淵が困惑していたのをまだ覚えている。

 けれども、どうしてだろうか。
 夏侯惇だけは、彼女に自分達には無いまったき純粋さを見、それに強く惹き付けられた。ただの無知な少女であると言うのに、何故かそうとは思えずに、ただただ清いと思った。

 異様に柔らかい雰囲気の彼女は穢れを知らない。自分にはあまりにも綺麗過ぎた。

 蛾は光に集(たか)る。
 夏侯惇も、ややもすればその蛾と同じなのかもしれなかった。

 ただ違うのは、蛾のように光に近付き自滅するのではなく、夏侯惇が近付き過ぎることで、真由香を汚してしまうであろうことか。

 分かっているけれど、求めずにはいられない。

 夏侯惇が真由香の様子見に猫族の村を訪れるのも、ただの建前だ。
 ただ真由香(ひかり)を見たいだけ。

 自分でも、何故己がこんなことをするのか、何故真由香に対してそんな思いを抱いているのか、皆目見当も付かない。
 《そんな思い》が羨望なのか違うのかすらも、未だ判別が付いていないのだった。


「あら、夏侯惇」

「……貴様か」


 村に入った直後に、関羽に会った。
 野菜を収穫してきたようで、土まみれのそれらを大事そうに胸に抱えた彼女は、夏侯惇を見るなり柔和に微笑んで「真由香の様子を見に来たの?」と。
 猫族の者達は、夏侯惇が真由香の様子を見に来ることに少しも抵抗感を持ってはいなかった。むしろ、趙雲以外の人間と接することは真由香にとっても良いことではないかと思っている節が見受けられる。彼らなりに真由香のことを考えて夏侯惇を受け入れているようだ。


「真由香なら家にいると思うわ。……あ、家は覚えてる? 一度行ったきりだったわよね」

「問題無い。……村に、異常は無いか」

「ええ。ああ、でも、ここ数日雨が続いていたから近くの山の地盤が弛んでるみたいね。そっちには近付かないようにはしているけれど、もしかしたら土砂崩れが起こるかも。大きければ、一旦村から避難すると思うから、曹操に一応伝えておいてもらえないかしら」

「分かった」


 避難すると言っても、ここは人里までは距離がある。多少移動しても問題はあるまい。
 己の家へと向かう関羽と別れ、夏侯惇は真由香の家へと向かう。

 真由香は当初は盲目であることから、空き家を与えられて暫くの間関羽が共に寝泊まりしていたらしい。今では慣れて一人でもほとんどをこなせるが、ほぼ毎日のように猫族や趙雲が様子を見に遊びに行くようだ。

 猫族は、真由香に対して過保護の傾向がある。
 まるで劉備のように。

 本人は、有り難いと思っている反面盲目に過保護であることをあまり良くは思っていないようだ。これでも前よりはかなりましな方だと辟易したように愚痴を言われたことがある。通りがかった趙雲に聞かれて軽い言い合いもした。
 道すがら、その時のことを思い出した夏侯惇は自然に口許が綻んでいた。すぐに気が付いて、表情を引き締める。

 真由香の家が見えてきた頃に、伸びやかな音が鼓膜を撫でるようにささやかに揺るがした。
 彼女の楽器の音色だ。二胡に似たそれは真由香の小さな手によって様々な曲を奏でる。夏侯惇の知らぬ曲ばかりだが、彼女の実力故か抑揚も感情も込められたような流麗な調べは心に深い安らぎをもたらしてくれる。
 彼女の演奏を邪魔しないようにと、静かに扉を開けて家に入ると、真由香はこちらに背を向けて佇んでいた。音には敏感な彼女だが、演奏に集中して夏侯惇の訪問には気が付いていないようだ。
 中断させるのも勿体なくて床に腰を下ろして音色に耳を傾けた。

 一通り弾き終えたのか、音色が止んで弓を下ろす。


「……ふう」

「終わったのか」

「ひぃっ!?」


 突然話しかけたのがいけなかった。
 盲目の真由香は仰天してその場で文字通り飛び上がった。
 楽器を取り落としそうになり、大慌てで胸に抱え込む。


「あ、あー……びっくりした……!」

「……悪かった。まさか、そこまで驚くとは」


 謝罪すれば、真由香は周囲を見渡して捜す素振りを見せた。が、夏侯惇にはまだ背中を向けている。
 毎度毎度、彼女は的外れな方向を向く。見ていて面白いと思っているのは、夏侯惇だけではない筈だ。


「その声は夏侯惇さんですね。すみません、本当に集中してて……っていつからそこに?」

「ここに来て、だいぶ経っている。……言っておくが、俺はそっちじゃない」

「え、止めてくれなかったんですか!?」

「後半は無視か」


 仕方なく立ち上がって目の前に立ち「ここだ」と声をかけながら肩に触れた。

 するとその手に真由香の小さな手が重なって安堵したように笑う。……その笑顔に、一瞬だけ思考が停止した。


「この手は確かに夏侯惇さんです。すいません、お待たせしてしまったようで……」

「構わん。ただ様子を見に来ただけだ」


 そっと手を離すと、彼女は寂しそうに眦を下げた。
 けれどもすぐに愛らしい笑顔になって夏侯惇に座るように勧めた。
 それから楽器を特殊な形をした鞄に入れ、


「今お茶を用意しますね!」

「出来るのか」

「十回に一回は上手くいきます!」

「そうか。止めろ」

「え……っ」


 成功率が低過ぎる。
 溜息混じりに断れば、真由香は不思議そうに、不服そうに夏侯惇を振り返った。残念ながら微妙に外れてしまっている。だがいちいち指摘するのは面倒だ。

 しょんぼりとその場に座り込んで肩を落とす真由香に、苦笑が滲んだ。


「気を遣うな。俺はただ、お前の様子を見に来ただけだ」

「……そうですけど。ほら、やっぱりお客様だし……ちゃんとお迎えしたい、と言いましょうか……」

「必要無い。どうせ、すぐに帰る」


 真由香はそこで目を伏せて「そうですか……」と。
 何処か悲しそうにも思えた。夏侯惇の見間違いかも知れないけれども。

 夏侯惇は怪訝に真由香を呼んだ。

 真由香ははっとして首を左右に振った。
 それから、唐突に最近の様子などを自発的に話し出すのだ。

 夏侯惇が来た時に訊くのはそう言った話だ。何度も訪問すればさすがに彼女も覚えてきたようで、ちゃんとまとめて話してくれる。……ままに話が逸れてしまうが。

 夏侯惇はそれを黙って聞いた。
 毎度ながら似たようなことばかりである。他愛ない話ばかりで、さして気に留めるようなものは何一つ無い。

 されど、真由香の話だと全てを聞いておきたくて、変わり映えが無くてもしっかりと聞いておきたくて、ひたに耳を傾けた。

 話が終わって用も無くなってしまうと、心の中に鉛が落ちたかのような心地になった。


「……変わりが無いようだな。曹操様にはそのように報告しておこう」

「あ、はい。すみません。お手数をおかけします……」

「構わん」


 立ち上がった夏侯惇はそのまま帰ろうとして、ふとくいっと袖を引っ張られたのに動きを止めた。

 袖を摘んだのは真由香だ。目が見えないのに、ちゃんと夏侯惇の袖を掴めている。
 自分でも予想外だったのか目を丸くして己の手を凝視している。かと思えば、ぱっと放してかなりの勢いで平謝りされた。顔が真っ赤だ。


「す、すいません! 本当にすいません!」

「いや……よく、袖が掴めたな」

「え、服の裾を掴んだと思ってました」

「そうか……取り敢えず、俺は戻る」

「は、はい。お見送りします……。楽器を部屋に置いてくるので、少しだけ待っていて下さい」


 悄然(しょうぜん)とし、そろそろと立ち上がった真由香は、夏侯惇に頭を下げて小走りに家の奥へと。


「――――」


 彼女の背中に咄嗟に伸ばしかけた手は、すぐに下ろした。
 別に逃げる訳ではない。
 別に、離れていく訳ではない。

 はあと吐息を漏らし、彼は伸ばした方とは逆の手を見下ろした。
 真由香に袖を掴まれた方だ。

 あの時、一瞬だけ――――期待した。

 自分は馬鹿だと心中で罵る。

 汚れてしまう。
 汚してはならない。

 彼女は純粋であるべきなのだと、分かっているのに。

 今まで戦で沢山の血に汚れている自分が、傍にいるべきではない。
 こうして、言葉を交わし、顔を見るだけで満足すればそれで良いのだ。

 それ以上何を求めているのか、自分自身のことが分からない。けれども自分の根底にいるモノは、分からぬ《何か》を渇望する。


「……考えるな。もう、良い」


 溜息を漏らして無理矢理に思考を中断させる。分からないことを考えても、時間の無駄だ。

 現状で満足ではないか。
 何度も何度もそう言い聞かせ、夏侯惇は先に家を出た。



●○●

 空蒼、夏侯惇で切甘でした。

 ifは思い付くんですが、空蒼本編の設定で曹操軍との絡みはほとんど考えてなかったので、こんな感じかなーとあれこれ考えながら書かせていただきました。

 戦に身を置くのが普通な夏侯惇にとっては、戦を知らない夢主は綺麗すぎるよなぁと思い至ってこんな風に落ち着きました。
 本当に感性がまるで違うし発言が完全に能天気なアホの子なので、曹操達も馬鹿にするよりは毒気を抜かれて扱いに困りそうな気がします。

 ちょっとだけ補足しますと二人は実は両想いだったり。
 夏侯惇は無自覚ですが、夢主は夏侯惇が好きだとほんのり分かってます。ただ世界が違うのでもだもだしてます。

 夏侯惇が自分がどう思ってるのか分かったら、また暗い感じに思考が行くんだろうなぁ……。



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