張蘇双




 今年二十を数えるその娘は、未だに純粋さを失っていなかった。
 しかし直向(ひたむ)きな少女はただただ純粋だっただけ。今ではすっかり落ち着いて粛々とした雰囲気も持ち、紅をはこうものなら艶やかさも加味される。
 腰まで伸びた艶やかな黒髪のさらさらと踊る様も、それを掻き上げる些細な仕種であっても、異性を引きつける。

 純粋で、艶やかな娘は、その日一際晴れやかに彩られた。

 まるでこの日を祝うかのように、小鳥達はさえずり、風が花弁を空へ舞わす。
 その中を、同じ年程の娘に引かれながら、彼女は歩いた。

 緊張が紛れるかと、手を引く娘――――関羽にほんの少しだけ外出させてもらったのだ。

 娘は朝からずっと口を利かない。まるで張り詰めたように口は真一文字に引き結ばれ、関羽が問いかけても仕種で答えてしまう。
 それが緊張の為であると分かっているので、関羽も苦笑しつつ咎めたりはしない。

 そうして、日も登り切らぬ内に自宅に戻り、娘は端座する。美しき仕立てられた衣をぎゅっと握り締めて、床を見つめる。――――といっても、娘は全盲なのだけれど。


「じゃあ、わたしは外にいるわね」


 こくり、頷いた。



‡‡‡




 六禮(りくれい)。
 古代中国の婚礼の六つの礼である。
 納彩、問名(ぶんめい)、納吉(のうきつ)、納清、清期の五つの礼を経て、親迎――――新郎が新婦を迎えに行くことで、婚礼は成立する。

 この娘――――真由香も、今まさに親迎の日を迎えていたのだった。
 昨日からずっと気が気でない。逸っているのか怖いのか困惑しているのか……自分でも己の感情が良く分からない状態にあった。

 夢なのではと思いもしたが、しかしそれこそ気の迷いだ。
 この世界で生まれもしていない真由香は、この世界に残り《彼》と婚儀を上げることを決めた。それは夢などではなく、まったき現実である。
 この選択を、後悔したことなど沢山ある。むしろ無い方がおかしい。

 それでも、覚悟の上で二つに一つを選び取ったのは他でもない真由香自身だった。
 誰かに強要された訳でもない、情に流された訳でもない。真由香自身がそうしたいと思い、決めたのだ。
 これからもきっと後悔することがあるだろう。
 けどもそれ以上に、この選択を良かったと思うことだってある筈なのだ。今までがそうであったように。

 ばくばくと荒れる心臓が、まるで耳元にあるかのよう。
 口を引き結んだまま胸の前で両手を組んだ真由香は、それに額を押し付けて目を伏せた。
 願うのではない。
 ただ――――本当の世界の、家族を思い出す。
 ここに呼ぶことは出来ないからせめて記憶を思い起こして一緒にいるかのような気分になりたかった。

 実のお母さんに、生んでくれてありがとう。
 実のお父さんに、お母さんと結婚してくれてありがとう。
 院長に、育ててくれてありがとう。
 孤児院の兄に、見守ってくれてありがとう。
 里親に、沢山の幸せをくれてありがとう。
 友達に、仲間に入れてくれてありがとう。
 画家さんに、友達になってくれてありがとう。

 沢山のありがとうを、別世界へ祈るように念じる。
 一言だけでは足りないけれど、それしか言えないから。
 強く、強く思う。
 大事な人達にほんの少しでも届いてくれたら良い。

 私は良いまで十分過ぎる幸せを貰いました。
 恩返しは出来ないけれど、皆の幸せを、ずっと願っています。

――――と、扉が開く音に全身が強ばった。


「真由香、彼が来たわよ」

「……あ、は、はい……っ」


 今日初めて発した声は酷く掠れていた。
 立ち上がろうとするのを関羽が制し、新郎を招き入れる。

 衣擦れの音と共に真由香の前に立った新郎は座り、組んだ両手を優しく包んだ。それだけで心臓が更に暴れ回る。破裂してしまわないだろうか……不安に駆られた。


「綺麗だね」

「そ、蘇双」


 解いた右手の甲に落とされたのは唇だろう。
 顔が熱くなっていく。

 新郎――――張蘇双は真由香を抱き寄せた。背中に回された手の力は強く、微かに震えていた。


「蘇双?」

「ごめん、ちょっと……緊張してる」

「……私もだよ」


 辿々しく彼の背中へと腕を回して撫でると、彼は真由香の肩口に顔を埋めた。


「ずっと言ってるけど、君から故郷を奪ったことは心から悪いと思ってる」

「うん」

「だから……だから、絶対に真由香を幸せにすると誓うよ。君の大切な人達に」

「……うんっ」


 涙腺が熱くなって視界が滲む。
 彼の言葉が嬉しくて、嬉しくて。
 蘇双の衣服を掴んで大きく、何度も頷いた。

 肩から重みが消えると、両の頬を包み込まれた。
 優しく、愛おしげに名を呼ばれる。身体から緊張が抜けていく……。


「ありがとう、真由香」


 そっと、ゆっくり合わさる唇に、真由香は目を伏せた。

 直後に全身に蘇る真由香の世界の人々の《感触》。
 頭を撫でられたり、背中をさすられたり、背負われたり――――。
 全て、絶対に忘れない。
 忘れたくない。

 だって、大好きな人達の感触だもの。


『おめでとう』


「――――え?」


 真由香ははっと天井を仰いだ。光を集めることの出来ぬ瞳がさまよう。
 今、確かに声がした。
 嬉しそうな、聞き覚えのある声が。

 口を開けて茫然する真由香を蘇双が怪訝そうに呼んだ。


「どうしたの?」

「……今、――――」


――――いや、止そう。
 真由香の都合の良い幻聴かもしれない。

 顔を正面に戻してかぶりを振った。
 そっと蘇双に抱きつくと、困惑しながらも抱き返してくれる。


 真由香は、心の中でもう一度ありがとうと呟いた――――。



●○●

 蒼依様リクエスト、空蒼で蘇双、結婚式です。

 この話はまず中国の結婚式について調べるところから始めました。
 と言っても詳しくは書いてませんが(^^;

 終盤での『おめでとう』が誰なのか、皆さんの想像にお任せします。
 結婚式ということで、結構しんみりしちゃいましたね……私としては、番外編でないと絶対に書けないシーンなので、とても楽しかったのですが。

 まだまだ続きますよ!



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