曹操




「幽谷、曹操殿がお帰りになりましたよ」


 父代わりの恒浪牙の言葉に、幽谷は手入れの手を止めて顔を上げた。

 隣で薬を調合していた彼は、口の前に人差し指を立てて天幕の外を指差した。耳を澄ませば、慌ただしい足音がする。

 おかしそうに笑う恒浪牙が天幕の入り口を見やり、そっと道具を自分の近くに寄せ集めた。

 途端、


「幽谷!!」


 勢い良く飛び込んできたのは夏侯淵だ。恒浪牙が器具を集めていなければ幾つか蹴飛ばされていたかもしれない。
 喜色満面の彼は恒浪牙に拱手すると大股に近寄って幽谷の腕を掴んで無理矢理立たせた。匕首が手から落ちた。

 あっと思うと彼はそれに気付く素振りも無く興奮した風情で声を張り上げた。


「曹操様と兄者がお戻りになられたぞ、幽谷、お前も迎えに行こう!」

「左様でございましたか」


 陣屋に残されたからだろうか、余程嬉しいらしい。
 そのまま幽谷を連れて外に出ようとする夏侯淵に、恒浪牙が苦笑混じりで呼び止めた。


「こらこら、夏侯淵殿。幽谷は今眼帯をしていないよ。ちゃんとして行かないと駄目だろう」


 窘(たしな)められて夏侯淵はあっと声を漏らした。幽谷のかんばせを見、渋面を作る。


「いちいち眼帯をする必要は無いだろう。オレ達も、曹操様も良いと言っているじゃないか」

「そういう訳には……。曹操様の下に四凶がいるなど、周囲が許す筈もありませぬ」

「ええ。それに地仙がいることも知られちゃマズいでしょうしー」

「「……ああ、そう言えば」」


 声を揃えて思い出したように言えば、恒浪牙は大仰に悲しんで見せた。

 地仙であるとだいぶ昔にあっさりと明かした彼は、今や曹操軍一の軍医として丁重な扱いを《一部から》受けている。幽谷や夏侯淵、夏侯惇は、とても彼が地仙らしく思えないので、結構ぞんざいな扱いだったりする。ちなみに、人間の中では彼女は夏侯惇や夏侯淵が一番親しい。良く朝から鍛錬に強制連行されては日暮れまで付き合わされる仲である。

 四凶として殺される筈だったところ、逃そうと母親が幽谷を預けたのが恒浪牙だった。
 それから暫く各地を放浪し、曹操と出会い幽谷がいたく気に入られた為に恒浪牙も父代わりにそのもとに身を置くこととなった。
 その点に関しては幽谷も感謝している。……一応は。

 前述した通り粗雑な扱いばかりではあれど、幽谷が一番気安く話せるのは恒浪牙だった。最も長く一緒にいるからだろう。父親とはこんなものなのかと、たまに思うことがある。
 感謝など、口に出しては言えないが。

 恒浪牙はゆっくりと立ち上がると、眼帯を手にして幽谷の前に立った。右の目にそっと当て、後頭部で紐を結んでやる。


「これで良い。さあ、行ってらっしゃい。ああ、怪我人がいたらここに来るように言って下さいね」

「分かりました」


 恒浪牙に会釈して夏侯淵に頷きかける。
 夏侯淵はそこでぐいっと彼女の腕を引っ張って天幕を飛び出した。



‡‡‡




 ……自分は確か、曹操の出迎えに来たのではなかったか。
 曹操にあてがわれた天幕に向かっている己の状況を思い起こし、幽谷が首を捻った。

 夏侯淵と共に迎えに行った直後、曹操は夏侯淵の腕を剥がし、そのまま労いの言葉をかける暇すらも無く天幕に先に行っていろと命令されてしまった。
 十三支と呼ばれる一族が従ってきたことや夏侯淵がこっそりと夏侯惇に殴られていたのも気になったが、それ以上に何故か機嫌が悪い曹操のことが気がかりだった。

 十三支に、何かされたのだろうか。
 いや、しかしその前に何故曹操が十三支を連れて戻ってきたのか分からない。
 卑しい卑しいと言われている彼らが曹操の側にいれば、彼の品位を下げかねない。ただでさえ四凶(じぶん)がいるというのに、どうしてそんなことを……?
 彼の意図を、後で問い質してみよう。

 曹操の天幕を訪れた幽谷は部屋の隅に座し、主の帰りを待った。その間にも、考えるのは十三支のこと。

 もし彼らが曹操の品位を損ねることがあれば、即座に斬り捨てる。
 これ以上曹操を貶めるようなものが在ってはならないのだ。
 己の手を見下ろし、彼女ははあと吐息を漏らした。

 戦う術は恒浪牙に学んでいる。四凶が人間以上の身体能力を持っていることも自負していた。
 この四凶の力――――忌むべき力は全て曹操の為に使うと遠い昔に決めている。彼の道を作る為に阻むものは何であれ、自分が排除していくのだ。

 ぎゅっと拳を作れば、不意に天幕に誰かが入ってきた。
 顔を上げればそれは曹操だ。思案に没頭していたので気配に気付けなかった。

 即座に立ち上がって拱手すると、曹操は憮然とした面持ちで草座に腰を下ろした。前に座れと視線で促された。

 それに従い座す。

 彼は幽谷を睨んできた。
 何故睨まれるのか分からぬ幽谷は、当然困惑して首を傾げた。


「……十三支に何かされましたか?」

「いや、お前にされた」

「私に?」


 幽谷は目を瞠った。
 だが、そんな覚えは全く無い。
 ますます困惑して曹操を呼ぶと、彼はさっと目を逸らした。

 その様子はまるで拗ねた子供だ。


「あの、私が何を?」

「……もう良い」

「え、は、はあ……」


 釈然としない。
 曹操を探るように見つめていた彼女は、ふと天幕の外に気配を感じて振り返った。


『曹操殿、少々よろしいでしょうか』


 恒浪牙だ。
 曹操が許可を出せば彼は中に入ってきた。そしてにこやかに拱手し、幽谷の頭を撫でた。


「無事にお戻りになられたようで、ようございました。お怪我などはございませんでしたか?」

「ああ。無い。お前も、ご苦労だった」

「いいえ。私はまだほとんど働いておりませぬ故。これからやっと仕事らしい仕事が出来ますよ。ああ、幽谷。暫く曹操殿のお相手をしなさい」


 手伝うべきかと思っていた幽谷の心中を察したように、恒浪牙はそう言った。

 何故かと問えば、彼は意味深に笑って、


「曹操殿は、存外寂しがり屋だからね」

「……恒浪牙」


 曹操の声が、一際低くなる。

 されども恒浪牙はくすくすと笑うだけでさして怖じた風も無かった。そのまま拱手して早々に退散してしまう。

 不思議そうに彼を見送った幽谷は、曹操が舌打ちしたのに視線を戻した。


「あの……曹操様?」

「何だ」

「……いえ、何でもありません」


 先程よりも機嫌が悪くなっている。
 これは……どうすれば良いのだろうか。
 困り果てた幽谷は曹操を見つめながらまた首を傾げるのだった。



 この後、夏侯惇へ労いの言葉をかけることを忘れていたと席を立つと、曹操が何も言わずに腕を掴んで無理矢理引き留め、ますます幽谷を困惑させるのである。



○●○

 れっど様リクエストです。
 もし夢主が曹操軍にいたら、でした。

 こちらでは夢主が恒浪牙に託された後五、六年程して曹操のもとに落ち着いたという設定のもと書いています。なので恒浪牙がいます。
 さすがに本編と同じ時期に拾われたとすると無理がある気がするので。

 こちらでは犀家に引き取られていないので、暗殺よりも恒浪牙に教わった武術や術を用います。一応は暗殺の術も教えていますが、犀家程本格的ではありません。

 軍の中では曹操の右腕ですが、曹操の幼馴染みといった感じが強いかなぁ……。



 れっど様、この度はリクエストして下さって、本当にありがとうございました!



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