咲夜様






 どうでも良い。
 どうでも良い。
 どうでも良い。
 どうでも良い。
 どうでも良い。

 肌を這う濡れた感触も、

 耳元に感じる湿った風も、

 自分の名前を愛おしげに呼ぶ低い声も、

 身体を貫く激痛も、

 その後に訪れる虚無感も、

 何もかも、どうでも良い。



 あなたもきっと、私がどうなったってどうでも良いんでしょうね。




‡‡‡




 受け入れた訳ではない。
 流された訳ではない。

 ただ――――ただ,うでも良くなっただけだ。

 鼻を突く甘美な香り。
 自身の身体を美しく着飾る仕立ての良い服や、最上の意匠を施された色とりどりの宝玉。

 ○○は一人、薄暗い部屋の中寝台に腰掛けていた。
 無表情に虚空を見つめ、ふと自分の身体を見下ろす。

 まるで自分の身体では無いかのようだ。
 こんな服……着たこと無い。
 自分の傷跡ばかりの身体を覆い隠す美しい布は、きっと自分がどんなに働いたって手に入れられないだろう。

 ……どうして私、こんな姿でいるんだっけ。
 それに何か、腰が痛い。
 私は昨日……何をしたんだったか。


「――――あ、そっか」


 私抱かれたんだ。
 腰の痛みは破瓜(はか)のそれ。異性に純血を奪われた証だ。

 何だ、そんなことか。
 私曹操に嫁ぐことになったんだった。曹操が勝手にそう決めたんだ。
 理由が分かればそれで良い。他はもうどうだって構わない。

 どうせ、足掻いたって自分の居場所は何処にも無いのだから。
 猫族にも人間にも嫌われる混血。そんな○○が入れる場所と言えば、多分曹操の傍なのだろう。

 存在することに何の意味があるのか分からない。
 けれど、死ぬなんて選択は取れない。大好きな今は亡き両親から授かった命を蔑ろにすることは、絶対にしたくなかった。
 ただ存在出来れば良い。理由が無くたって死なないでいるならそれだけで、十分。

 だから、別に曹操の妻になることなんて気にすることでもないのだ。
 むしろ彼の妻になる、たったそれだけで存在が保証されるのであれば喜んで頷く。

 ……もう、どうでも良いんだよ。

 婚儀はいつ開かれるんだったか。
 曹操が行為に至る前に教えてくれたような気がするけれど、よく覚えていない。


「暇、だな」


 部屋から出ちゃ駄目なのかな。
 せめて外を歩くくらいはしたいのだけれど、婚儀の前だから勝手な行動は怒られてしまうだろうか。

 寝ていようか……。
 そうすれば一気に時間は短縮出来るし、時間になれば起こしてもらえる。
 よし、寝よう。
 ○○は小さく頷いて寝台にぱたりと倒れ込んだ。

 ……そう言えば。
 猫族の皆は、今頃何をしているだろうか。
 何故か胸に浮かんだ素朴な疑問は、心を容赦無く締め付けた。
 何で今更……どうでも良いのに。

 どうでも良いんだ。
 本当に、どうでも。
 私は猫族じゃないし人間でもない。

 存在させてくれるのは、きっと曹操の傍だけなんだ。
 両親に胸を張れる人生じゃなくても良い。
 父親の望んだ人生じゃなくても良い。
 両親から受け継いだこの命を守れるんだったら、それで良いんだ。

 もう猫族のことは忘れよう。忘れるべきなんだ。

 ○○は瞼を下ろして全身から力を抜いた。



‡‡‡




――――誰かが頭を撫でてくれている。
 誰だろうか。曹操?

 いや、けれど彼に撫でられているとは思えない。
 曹操の手にこんなにも安堵を覚えたことは一度も無い。

 じゃあ、これは誰?

 ○○は瞼を押し上げて、ゆっくりと身を起こした。眠り過ぎたか若干身体が怠い。
 掠れた呻きを漏らした直後に頭から手が離れた。

 視界の端に映ったのは銀糸の束だ。この薄暗い部屋の中、まるでそれ自体が発光しているかのように煌めいていて、美しい。
 ……何故だろう、それに既視感を感じる。
 銀糸は長い。
 何処から伸びているのかと視線で辿ると、それはどうやら毛髪のようで、しかもそれは端正なかんばせをした青年の物で。

 再び、既視感。

 見覚えが無い筈なのに、見覚えがある。
 矛盾した感覚に○○は首を傾けた。

 青年は淡く、悲しげに微笑むと○○の頬を撫でた。


「○○」


 優しく鼓膜を震わす声は低い。
 けれど、誰かの声に酷似していた。

 誰だっただろうか。
 この人は、いつ自分と会ったか。
 頭にぴんと立った猫の耳は間違い無く猫族の証だ。でもこんな目立つ容姿なら印象に残っている筈。
 ○○は遠い目をして記憶を手繰った。
 青年は微笑んだまま○○の頬から手を離す。

 金色の双眸が、ゆらゆらと揺れ、白銀の髪がさらりと音を立てて肩から流れ落ちた。

 金に、白――――。
 頭の何処かでかちりと何かがはまるような音がした。

 黒の双眸が、驚愕に見開かれる。端が裂けてしまおう程に。


「りゅうび、さま」


 声を上手く出せなかった。

 劉備は苦笑した。


「この姿で会うのは、初めてだよね」

「何、で」


 一ヶ月前、猫族が曹操軍との合同鍛錬に参加した時に見た彼は幼かった。○○の良く知る姿だったではないか。


「ごめん、勝手なのは分かっている。けれど、○○」


 「猫族のもとに戻ろう」彼は真っ直ぐに○○を見据えて言った。

 ○○は戸惑う。
 彼が普段の態度とは全く違っていたから、彼の言葉の真意を測りかねた。
 今まで拒絶しいていたのは劉備ではないか。

 だのに、どうして今彼はそんなことを言う?

 意味が、分からない。

 怪訝とした顔で劉備から距離を取ると、彼は途端に眦を下げた。
 どうしてそんな顔をするの?
 今まで、冷ややかに拒絶していたじゃないか。

 今更。

 ……今更。


「今更、そんなこと、言うの? 今更どうして、私を?」

「……そう言われても仕方ないね」


 吐息をこぼした劉備は○○に手を伸ばす。


「ごめん……なんて、そんな言葉だけで流せることじゃないことは分かってる。でも、曹操には――――彼にだけは、君を渡したくないんだ」


 勝手なことに言っている。
 なんて自分勝手だろう。


「私……私は、あなた達の都合で簡単に移動出来るような物じゃないっ」


 嗚呼、私はあなたにとっては生き物ですらないのだ。
 都合良く行き来させられる物。
 どうしてそんな人の言葉に従わなければならない?


「行きたくない……! 私を物としてしか見ていない人となんて、行きたくない!」


 どうせ猫族のもとでは存在を許されないのだったら、行っても無駄だ。
 従わない。従いたくない。
 ○○は首を左右に振って寝台の隅へと逃げた。

 嫌だ、嫌、と繰り返し呟いて劉備を拒絶する。

 劉備の悲しそうな顔を見たくなくて顔を伏せた。


「私は、存在したいの。存在するだけで良い。物じゃなくて、生き物として……」

「だから、」

「猫族のもとで、それが出来なかったから私はここにいるんじゃない!! 劉備様が、私を拒絶するから私は猫族で存在することが出来なかった! それなのに今更? 今更何なの? 私は、人間と結婚することも駄目なの? 私の存在を許してくれることって、そんなに悪いことなの? 何もかも関羽は良くて、私は駄目なの!?」


 ○○は早口に捲し立てた。
 彼女の中に生じた感情は怒りではない。

 深い悲しみだ。
 何が悲しいのか分からない。
 でも、とても悲しい。
 胸が張り裂けそうなくらいに悲しい。

 嗚呼、視界が滲む。
 滲んでいく。


「私、私は……」


 肩に何かが触れる。
 拒絶しようとする前に、ぐっと抱き寄せた。


「嫌っ」

「ごめん、ごめん……っごめん」


 今更謝るなら――――悪いと思っているなら、どうして拒絶なんてしていたのか。
 都合が良すぎる。


「ごめん、でも本当に君を曹操に渡したくない……!」


 キツく、キツく抱き締められた。

 止めろ、止めてくれ。
 謝らないで。お願いだから。

 放して、と口は乞う。

 理性は拒絶を示す。


 だのに。

 だのに。


 どうして、身体から力が抜けていく……?



 はらりと、○○の頬を涙が伝う――――。



●○●

 咲夜様リクエスト、悠璃様リクエストのifでした。

 突然ですが甘いって何ですか(真顔)
 切ない甘いを志しても書けないらしいです、私は。甘さが必ず迷子になります。なんてこと……!

 多分、これから劉備さんが頑張ります。あちこち話して猫族の理解を得て、なおかつ夢主にアタックして……と、そんな感じでしょうか。
 ちなみにここでの劉備は突発的に成長しています。
 和解の件は、悠璃様リクの続編と同じだと思います。


 咲夜様、この度は企画を見つけて下さってありがとうございます。
 前回のリクエストを書くチャンスを下さって……気合いを入れて書かせていただきましたが、如何だったでしょうか。……前述した通り、甘さが迷子になってしまっていますが。

 三万打企画に関しても、嬉しいお言葉、恐縮です。
 私も、子供達が、きっと繋げてくれると思います。あんな別れ方になってしまっているのですから、むしろそうであって欲しいです。
 三万打企画について、そこまで言って下さって本当にありがたいです。

 咲夜様のお言葉を励みに、これからも頑張って参りますね!\(^o^)/

 本当に、ありがとうございました!!



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