結衣様
『喜べ、○○!』
『今日から晴れて、劉備様の婚約者になれたのよ』
――――意味が分からなかった。
両親の言っている意味が、最初は分からなかった。
彼らの言葉を何度か反芻(はんすう)していく内に、段々とそれは頭に浸透していき……彼女は理解した。
己の知らぬところで、己の将来が決められてしまったことを。
途端、頭の中で何かが瓦解するような音がした。
‡‡‡
○○は、笑みを失った。
天真爛漫で、絶えることの無かった彼女の愛らしい笑顔。
それが消えた理由を知る者は誰もいない。
どうして彼女は今までと打って変わって暗く沈み、鬱ぎ込むようになったのか。
誰かが何かをしたのか。
その何かとは何なんなのか。
猫族の誰もが首を傾げた。
本人に訊ねたとて何でも無いの一点張り。素直だった彼女は頑なに本心を晒すことを拒んでいる。唇を引き結んで開こうとしない。
誰もが彼女を案じ、分からぬ理由に手をこまねいた。
――――されども。
よしや○○が話したとて、誰が信じるであろうか。
彼女が長の中に見た恐ろしい《影》を。
○○は誰も信じられぬことを分かっていた。
昔からそうだった。
彼女は生まれながらに感覚が鋭く、常に視界に有り得ぬモノを捉えてしまった。今はもう慣れきって気にしないけれど、昔はあそこに何かがいる、何かが隠れていると泣き喚いては悪戯(いたずら)だと断じられ叱りつけられた。
そんな彼女にとって、猫族の長――――劉備は酷く恐ろしい怪物のように思えた。
純真無垢な彼の周りを取り巻く黒い影は、まるで猫のような形を保ちながらぐねぐねと揺らめく。
いつもいつも影は劉備にまとわりついているから、○○はまともに彼を見たことが――――否、彼と接触したことすら極端に少なかった。
○○にとって、彼女を襲ったその出来事は、まさに地獄への強引な導きだとしか思えない。
「お、○○。今日もえらく暗い顔してんなー」
母親の手伝いで山菜の採取に向かう途中、○○は呼び止められた。
「……張飛、関羽」
ああ、会いたくない二人だ。
劉備と親しい張飛と関羽。劉備程ではないけれど、○○は彼らとも接触したがらない。
口から出そうになった溜息を押し止めて○○は「こんにちは」と挨拶した。
「何でもないわ。気にしないで」
「でも……劉備の婚約者になってから、よね? もしかして嫌だった?」
嫌だ。
物凄く嫌だ。
でもそんなこと、○○が言える筈もない。言えば一方的に責められるだけだ。誰も、○○の言葉を信じてくれないのだから。
○○は苦笑を浮かべて「本当に何でもないから」と、やんわりと拒絶した。
すると、関羽が悲しそうな顔をする。
彼女は劉備のことを本当の弟のように愛している。彼女の中で、○○が劉備との婚約を嫌がっているのだと、そうなっているらしい。……理由はともかく、婚約に良い感情を抱いていないことは間違ってはいないけれども。
「じゃあ、私は母さんの手伝いの途中だから」
「あ、うん。ごめんなさい。引き留めてしまって」
「構わないわ。じゃあね」
○○は二人と分かれると、早足に森へと向かう。
――――もし。誰か。
誰か○○の言葉を信じる者がいたとするなら。
誰か○○と同じ感覚を有する者がいたとするなら。
この猫族は、一体どのような道を歩むことになっていたのだろう。
……などと、考えても詮無いことであったか。
‡‡‡
今宵は偃月だ。
○○は夜空を見上げながら細い吐息を漏らした。
漆黒の闇。
前後不覚でも、この夜の闇は怖くなかった。
だって、虫の声がする。獣の声がする。
この闇の中、自分以外に生きている者は確かに存在しているのなら、○○にとってとても心強い。
たった一人で森を歩く○○は、ふと足を止めた。
……この気配。
ぞわり、と尾骨からうなじまで這い上がってくる冷たいモノは何だろう。
いや、いや。
そんなことはどうでも良いのだ。
それよりもこの気配……どうしてこの気配がこの森に在るのだ?
有り得ない。
この気配は――――《彼》はこんな真夜中出歩くような性格をしていない筈だ。
心細くなって出てきたとか?
……会いたくない。
でも会わないと、《彼》に何か遭ったら大変だ。
どうしよう……。
怖い。
行きたくない。
でもあの人は猫族の象徴だし……放っておくことは出来ない。
背中を舐めるような悪寒に身体が瘧(おこり)のように震える。
心に根付いた恐怖が、○○の足を地面に縫いつけて動かさない。
と、不意に後方の茂みが騒いだ。
「ひっ」
咽がひきつった。
ばっと振り返ると、そこから白い頭と真っ黒な煙が。
闇の中でも何故か分かってしまうその不穏な影に、○○は戦慄して腰を抜かした。
白は眼中に無い。
闇の中で見る黒い影が恐ろしくて恐ろしくて――――。
「……○○」
白が、言を発した。
少しだけ優しくも切なげな声音には、その黒とはまるで正反対で、不協和音を感じた。
けれども、しっかりとしたその言葉がいつもの《彼》とは違っていて。
「あ、え……?」
白い《彼》――――劉備は○○の前に立って腰を屈めた。
偃月にうっすらと照らされたそのかんばせは、不可思議なことに幼さを感じさせない。おかしい。幼い作りの筈なのに。
彼は○○手を伸ばし、触れる寸前で止めた。
眉根を下げて微笑む。
「劉備、様……?」
「君は……知っているんだよね。僕の中にいるモノを。だからそんな風に怯えている」
ごめんねと、彼は僅かに震えた声で謝罪した。
……いつもの劉備とは違う。
どうしてこの人はこんなに大人びているのだろう?
怖いのに。
怖いのは変わらないのに。
どうしてか、その泣きそうな金から目を逸らせない。
自分自身が惹かれているのか、黒い影が捉えて放さないのか――――。
「ごめんね、○○。どうしても、君には傍にいて欲しかったんだ」
もっと嫌われちゃったかもしれないけれど。
困ったような微笑みを浮かべて劉備は手を伸ばし、一瞬止まった後に○○の頭をそっと撫でた。
そこで、えっとなった。
…………嫌じゃ、ない……?
怖い。黒い影が怖い。
でも、撫でられるのは、怖くも何ともないのだ。
全然、嫌じゃない。
劉備の様子が違うから、自分が戸惑っているだけなのかもしれない。
……うん。そうに決まってる。
劉備は怖い。
劉備にまとわりつく黒い影が怖い。
ただ劉備の様子が違うから、混乱しているだけなんだ。
「ごめんね、○○」
「劉備様……?」
「今まで怖がらせてごめん」
劉備は何度も何度も謝る。
まるで懺悔でもするかのようだ。
○○を怖がせることに、そんなにも罪悪感を感じるなんて無いのに。
どうしてそんな風に苦しそうに謝るんだろうか。
分からない。
彼が分からない。
分からないから、思わずそっと彼の頬に触れた。完全に無意識だった。
彼はびくりと顔を強ばらせた。
けれども、ふっと表情を和らげて気持ち良さそうに目を細める。触れているだけなのに。
「いつか、君を今よりももっと怖がらせる日が来る。その時、君を傷つけてしまうかもしれない。……本当に、ごめん」
そっと、手を離される。
動く掌に感じた風は、いやに冷たかった。
黒い影はまだいる。
怖い。
怖い、のに。
「けれど、どの僕も君を好きでいることは、知っていて欲しい」
劉備の微笑みを見ていると、どうしてか胸が痛みを訴える。
●○●
結衣様リクエスト、劉備の婚約者にされた猫族夢主で切甘でした。
まだ劉備の片思いな感じです。婚約することになったのは、関羽が漠然と劉備の好きな相手が夢主だと察し、猫族全員に何とかしてくっつけたいと願い出たからです。大人劉備は悪いと思いつつ、拒絶はしていません。ちなみに普段の劉備はあまりよく分かっていないと思います。
完全に夢主の意思は無視ですが、劉備と婚約するなら幸せになると考えたが故のこと。
けれども、この夜のことで夢主の恐怖心にも変化が生まれたかと思います。
これから先、ゆっくりとですが着実に関係が変わってくる――――と私の頭の中ではなってます←
ちなみにこの夢主は、私が短編で書きたかったけれど形に出来ずにお蔵入りなった設定を加えさせていただきました。
初めてまして、結衣様。
初めてのご参加で、ご期待に添えられる作品に仕上がっていれば良いのですが……(・・;)
この度は、企画に参加していただき、本当にありがとうございました。
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