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夏侯淵の妹は、兄に似ず気が長く、また人を叱咤すると言うことが滅多に無い。
そのような人物程、爆発した時が恐ろしいものだ。
「お湯が足りません! 早く沸かして持ってきて下さいな! ――――ああ、その薬ではなくてそっちの薬の方が良く効きますわ!!」
「○○様!! 毒矢を受けた者が多く、我々では手が足りません!!」
「軽傷の兵士がいるでしょう! 彼らに手伝ってもらいなさい。指示は的確にお願いします。あなた達は毒を受けた者達の中でも急を要する人達を!」
「はっ!」
まるで戦の如く騒々しい陣屋の中、彼女の声は凛と突き抜けた。
彼女――――○○は手当をする傍ら周囲の様子に目を配り、部下に指示を飛ばしていた。
軍医たる彼女は、兄や従兄の仕える曹操より直々に軍に属する軍医達の統率を任されている。勿論このような若輩が、と武官達の反感も多かった。
けれども家柄も関係なく、曹操に媚びた訳でもなく、その医学の知識を評価されてのことである。彼らの憂いはすぐに消えた。
軍医達の上に立って一年も経ってはおらぬが、今では誰もが彼女を認め、軍医として十二分の人物であると曹操と同じく評価している。
加えてその人柄もあって、軍医の中には、年下の彼女の嫌味の無い膨大な知識量に心より感服し、師として慕う者も多かった。
女はとかく非力。
ただの道具に過ぎない。
そのような存在とは思わせない程の働きであった。
○○は額に浮いた汗を拭い、手当てを終えた兵士の肩を叩いて笑いかけた。
「もう大丈夫です。後は完全に癒えるまで、安静にしていて下さいね」
「はい。ありがとうございます。あなたのおかげで私だけでなく瀕死の親友まで命を取り留めることが出来て……○○様がこの軍にいて下さって、本当に良かったと思います」
「ありがとうございます。では、私はこれにて」
親友のことで涙ぐんだ兵士に微笑を残し、○○は次の負傷者へと向かう。
今回の戦はそれ程に拮抗(きっこう)していたものではなかった。黄巾賊残党討伐の戦で、数はこちらの半分以下。
されど運悪く、その残党の中に頭の切れる者がいたのだ。
森に囲まれた場所であることを利用し、軍の背後に奇襲を仕掛け毒矢を放った。
機転を効かせた十三支達が対応してくれなかったら、体勢は呆気なく崩されていただろう。
十三支に怪我人がいたとは今のところ聞いていないが、後で様子を見に行った方が良いだろう。
……この場が落ち着けばの話だけれど。
負傷者の治療に専念しつつも、その数には正直辟易していた。これで十三支に怪我人がいなかったとしたら、完全に兵士達の鍛錬不足だ。十三支の身体能力が優れているとは、大した問題ではない。
未だに生まれぬ余裕に、○○は細く吐息を漏らした。
その時である。
天幕の出入り口の方で、部下の怒声が聞こえた。
この状況だ、苛立ちが募って当たってしまうのも無理はない。けれど、それだけは決してやらぬようにとキツく言い聞かせてある。
何事かと眉根を寄せた○○は、近くの部下に続きを任せて声のした方へと歩いた。
怒声が、また聞こえた。
「ならん、ならん!! 薄汚い十三支なんぞに渡す薬も、包帯も無いわ!」
「そこを何とか! お願いします!!」
……いら。
「何をしているのです」
「あ……○○様……いえ、これは、」
部下は○○を振り返るなり苦虫を大量に噛み潰したかのような顔をした。いら。
軍医の中では最年長の彼が応対していたのは、十三支だ。○○と同じ程の娘と、壮年の男。
○○が責任者だと告げると、彼女はがばりと腰を折り曲げた。
「一人、どうしても今すぐ手当てが必要な子がいるんです!! 薬や包帯を分けて貰うだけでも良いから……」
「分かりました、私が参ります」
「○○様!?」
部下に指示を飛ばそうとした○○は、慌てた風情の彼に止められた。いら。
「なりませぬぞ! こやつら十三支のもとに○○様が行かれるなど……!! その御身が汚れてしまいましょう!! 十三支などどうせ捨て駒、死ねばそのまま捨て置けばよろしいのです! どうかお止め下さい!!」
いら、いら。
「そんな……そんな言い方酷いわ!!」
「ええい、五月蠅い!! 口答えする出ないわ!!」
たまらず反論する娘に、部下は唾を飛ばす勢いで怒鳴り散らした。
いら、いら、いら、いら。
○○のこめかみが、ぴくぴくとひきつっていることに彼らは気が付いているだろうか。……いいや、気付いていない。
○○は徐(おもむろ)に懐へ手を伸ばし、《それ》を出した。
そうして――――部下の首へ突きつけるのだ。
部下はえっとなって○○を見下ろし、ざっと青ざめた。
――――○○という娘は、夏侯淵(あに)に似てつり目がちで、少々キツい印象を与えてしまう。
そんな彼女は怒らせると、兄すらも気圧されてしまう程恐ろしい顔をする。
表情は笑顔だ。……そのつり目だけが、氷のように冷たく、鋭利となる。直情的な兄とは違い地の底から来るような恐ろしさだった。
それを良く知っているその老人は、口端を震わせた。
「○○、様……?」
「愚か者」
○○は笑顔で言い捨てた。
「種族で患者を選ぶなど、およそ軍医のやることではありません。その無駄に年だけを取ったすっからかんの頭に入れておきなさい。命に色も形も在りはしないのよ。それが分からず患者の生まれに拘る愚か者に医学を振るう資格は無い。そんな医者の恥曝し腐れ野郎は要りませんから今すぐこの軍から出て行きなさい。これは命令です」
早口に捲(まく)し立てる○○はそれでも笑顔だ。笑顔で殺気を放つので、酷く恐ろしい。
それ――――匕首を懐に戻すと部下は青ざめ、ぷるぷると震えていた。唇を真一文字に引き結び、○○に拱手(きょうしゅ)して天幕の奥へと逃げた。
それを見送り、溜息を一つ。十三支達に向き直り、一礼して謝罪した。
「私の部下が失礼しました。今支度をして参りますので、少しばかりお待ちいただけるかしら」
「は、はい! 全然!」
ぶんぶんと大袈裟に首を振る十三支の娘は、何処か青ざめていた。
‡‡‡
十三支の天幕に入った直後、○○は呆れて言葉も出なかった。
……なんて汚いの。
埃っぽく、粗末な布ばかりが敷き詰められたその中に、怪我人は横たえられていた。
この陣屋、私をどれだけ怒らせるのよ……。
「後で曹操様に直談判しておかないと……」
取り敢えず十三支の――――関羽に手伝いをしてもらうことにし、付き添いの者は一旦外に出した。
「怪我人は彼だけ?」
「ええ……張飛だけよ。他の皆は掠り傷程度」
「そう。それはようございました」
張飛という名前の少年は、腹を深く斬られていた。関羽曰く、彼は突出しすぎて孤立し、集中的に襲われたのだそうだ。それでこの腹の傷一つで済んだのは、不幸中の幸いだろう。
薬の中で、一番上級の物を持ってきていたから、関羽に手伝ってもらって服を脱がし傷を拭いて消毒をした後、それを傷に擦り込むようにして塗りたくった。血止めの効果もあるが、良薬なだけに非常に染みる。
案の定、今まで痛みを堪えて無言でいた張飛は悲鳴を上げた。
「いっでぇぇ!! ちょっ、何だよこれ!! いで、超痛ぇんだけど!!」
その大音声が鼓膜を突き刺す。こちらも痛い。
○○は耳を塞いで眉根を寄せた。
「張飛! 薬だもの、染みるに決まってるじゃない!」
「尋常じゃねえってこれ!! 毒なんじゃねえの!?」
――――ぴき。
「……ああ、もう……」
ぬらり、と右手を持ち上げる。
それに気付いた関羽があっと声を漏らした時には遅く。
「――――男だったら痛みぐらい我慢しなさいっ!! ほんっとに、どいつもこいつもぉっ!!」
バチンッ。
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