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最悪だ。
幽谷は眩暈がして眉間を押さえた。
彼女が一人洛陽の町を歩いていたのは、関羽の買い忘れを揃える為だった。関羽にはまだ洗濯物があるからと、幽谷が自ら申し出た。
それが、間違いだったとは死んでも思いたくない。
思いたくないのだが――――。
「今日は、買い物でもしに来たのか?」
「……」
自分の選択を心から呪った。
前に立って幽谷に爽やかな笑顔を向けてくるこの青年――――趙雲。
幽谷の最も会いたくない人物であった。
幽谷は彼の問いを無視し、くるりときびすを返した。幸い、買い出しはもう済ませてある。後はもう帰るだけだ。
「幽谷?」
「用事はもう済みましたので失礼します」
早口に言って彼女は足を踏み出した。
一歩。
二歩。
……。
……。
……。
三歩目は無かった。
「……すみませんが、」
手を離していただけないでしょうか。
威圧するように、地を這うが如き低い声を出す。肩越しに振り返って趙雲を強く睨めつけた。
が、笑顔は崩れず。
「用事が無いのであれば、少し俺に付き合ってくれ」
「お断りさせていただきます」
誰が付き合うか。
キツく言ったのだが、彼には全く効かないようで。その笑みにいい加減苛立ちを通り越して腹が立つ。骨格を変えるくらいに殴ってやろうかと物騒な考えまで浮かんできた。ここに抑止力(かんう)はいない。
趙雲はぎゅっと拳を握る幽谷には気付かず、そのまま腕を強く引いた。が、幽谷は足を踏ん張ってその場から動かない。
「何故私があなたに付き合わなければならぬのです。どのような用事かは存じませぬが、一人で行けばよろしいでしょう」
「いや、お前に意見を求めたいんだ。すぐに済むから、どうか付き合って欲しい」
ぐいと腕を引いても強く握られている為に離れてくれない。
しかもここは雑踏のさなかだ。さっきから彼の容姿も手伝って、周囲の視線が痛い程に突き刺さる。
ちらりと視線を流せば、面白がって何かを囁く人々が映り込んだ。苛立ちのあまりキツく睨むと揃って顔を背けられた。
周囲の目を言ったとして、趙雲に折れる様子は無いだろう。
となれば折れるのは、どちらか――――自分しかいない、か。
幽谷はこれ見よがしに大仰に息を吐き出した。
きっと趙雲を見上げ、
「用事が終わればその場で私は帰ります。それで良いですね」
「……ああ。助かる」
ふわり。
趙雲のその嬉しげに輝いた笑顔が、幽谷の神経を逆撫でする。
ひくり、ひくりと口端をひきつらせ、幽谷は趙雲の手から力が抜けた瞬間振り払った。
「何処に付き合えと? 遠いようならお断りします」
「いや、この洛陽の中だ。とある店を見たいんだ」
「店とは、何の?」
その問いは、曖昧にはぐらかした。彼曰く、行けば分かると。別に教えたとて問題は無かろうに。
幽谷はしかめっ面で、歩き出した趙雲の後ろに続く。
ついさっき歩いたばかりの道を進む途中途中で彼は幽谷を肩越しに振り返る。ちゃんとついてきているのか確認してくるのが、非常に五月蠅い。
「何度も振り返らずとも、付き合うと申した以上は帰りません」
本当は今すぐにでも関羽のもとに帰りたいが。
心中の中でそうぼやき、幽谷はもう振り返るなと敬語でキツく言い聞かせた。
趙雲は安堵した風情で素直に頷き、本当に一度も振り返らずに目的地へ向かった。とても有り難いが、そんな一度の言葉を信じることは安直に過ぎるのではないか。
趙雲という男は、本当に自分と馬が合わないと思う。
自分がここまで、敵という立場にいる訳でもない趙雲(たにん)を嫌うなど、恐らくは初めてだ。自分にもそういう心が付いたのだなと思うが、正直手放しには喜べなかった。
溜息がまた漏れた。
と、唐突に趙雲が立ち止まる。
何かと思えば、目的の店に到着したようだ。
趙雲は幽谷に笑いかけ、「ここだ」と。
そこは装飾品を扱う店だった。幽谷も何度もこの店の前は通っている。周囲でも特に品揃えが良いと、屯(たむろ)した女性達が口にしていたのが記憶に残っていた。
整然と並んだ台の上には色とりどり、煌びやかな装飾品が置かれ、それぞれが日の光を借りて自己主張している。
他店に比べると、確かに品数は多い。
趙雲に促されて店の前に立つと、他の女性客の接客をしていた女店主が朗らかな笑みを浮かべてこちらに歩み寄ってきた。
幽谷と趙雲を見比べて、にんまりと笑みを濃くする。
……嗚呼、勘違いされたのだと思わず拳を握る。
しかし洛陽の町で無用な諍いを起こしては劉備や猫族の皆に支障が出ると、理性で押し止めた。
「おや、さっきの人じゃないか。えらく悩んでたと思っていたら、奥さんを連れてきて……贈り物だったのかい?」
「赤の他人です」
即座に否定すれば趙雲の肩が僅かに下がった。が、気にするべくもない。
店主は一瞬だけぽかんとし、すぐに趙雲に憐憫の籠もった眼差しを向けた。
「趙雲殿、早く用事を済ませて下さい」
「……ああ、分かった」
少しばかり消沈した声で、趙雲は頷いた。
それから幽谷に装飾品を示し、
「この中で、何かお前が気に入る物は無いか」
「は?」
ぐぐっと眉間に皺が寄った。
「……手伝って欲しいとは、私の好みを教えると言うことだったのですか?」
「ああ」
……付き合うと言ったつい先刻の自分を呪いたい。
下らない。
本当に下らない。
幽谷は生まれてこの方縁遠い装飾品などには全く興味を持たない。故に好みが無い。何が気に入るかどうか問われても答えられなかった。
それに自分が選んだとして、それを一体どうするというのか。
理解が出来ない。
胡乱げに彼を見上げれば、彼はいやに真摯な表情で促してくる。
仕方がないので、適当な首飾りを指差した。
が、何が気に入らなかったのか、彼はぐにゃりと顔をしかめてしまった。
「……もう少し真剣に考えて欲しいんだが」
舌打ちが漏れた。
「では、言います。私は生来装飾品に興味を持ったことがありません。それ故、気に入る物を問われても私には答えようがございません」
だから人選を間違っていると吐息混じりに言えば、趙雲は何やら思案し始めた。
考えて時間を浪費しないで欲しい。早く陣屋に戻りたい幽谷の思いはそれだけである。
「それは、想定外だったな……」
「そうですか。では私の役目はもう終わりですね。失礼します」
頭を下げてきびすを返せば、その瞬間に手を握られた。
趙雲とのは違う、女性の手だ。
まさか……。
何となく面倒そうな予感を覚え、振り返る。
「だったらあたしが選んであげるよ。あんたはこの辺でもなかなかいないような上玉だから、腕が鳴るねぇ」
「……」
くらりと、眩暈。
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