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そこに、○○が立っている。
偃月の夜、何も見えない場所でたった一人佇んで、黒曜の瞳は前方を強く見据えていた。
紫がかった唇は真一文字に引き結ばれ、艶の無い長い髪は風に乱された。
痩せ細った腕には幾つもの擦り傷。
握られた拳は、掌に爪でも立てているのか赤い血が流れている。
――――その全てが、愛おしかった。
関羽にするように抱きつくことが出来たらどんなに良いだろうか。
彼女は暴言を吐かれても、出て行けと石を投げつけられてもああして耐える。
この自分をその守る為だけに。
どんなことをされても、ずっと、ずっと。
このままでは彼女が死んでしまう。
でも、自分には何も出来ない。
……いいや、何かをしてはいけない。
こうなるようにしたのは、他でもない自分なのだから。そんな資格は無い。
それに、ここで自分の思うままに彼女に接すれば、いつか傷つけてしまうではないか。
それが何よりも恐ろしい。
けれど。
でも。
この腕に、閉じ込めたい。
手を伸ばそうとしたその直前、○○がはっとこちらを見た。目が見開かれる。
けれどもすぐに張り付けられる笑顔は、無機質だった。笑顔なのに、何も感じられない。ただただ本心を隠すだけの仮面でしかなかった。
○○の本来の笑顔は、自分が奪ったのだった。
彼女はこちらに頭を下げて歩み寄ってくる。本当はこっちに来たくないくせに。
『劉備様。夜ももう遅うございます。私が、家までお送り致しましょう』
『いらない。関羽のとこにいく』
『けれど……』
『いらないってば!』
違う。
違う。
そんなことを言いたいんじゃない。
本当はもっと違う言葉をかけたいんだ。
だのに、自分はそれを許さない。許しちゃいけない。
胸が刃物で突かれるかのように痛む。
悲鳴を上げるのは、何度目だろうか。○○に冷たく接する度に自分の胸が軋んでいく。ひびが入っていく。
勝手な話だと思う。自分が○○をこんな目に遭わせているのに自分が痛いだなんて。
『……劉備様? 何か悲しいことでもありましたか?』
○○が、手を伸ばしてくる――――。
振り払った。
手の甲に痺れるような痛み。
逃げ出した。
これ以上一緒にいたくなかった。
胸が引き裂かれそうになってしまう。襤褸(ぼろ)が出てしまいそうになる。
その時の○○の表情は、笑顔ではなかった。容赦なく胸を抉った。
まるで自分を責めるように。
‡‡‡
穏やかだ。
青々と生い茂った森の中、○○は一人山菜を摘んでいた。
劉備の妻になって数年。
○○の身体は女性らしく肉付き良く柔らかになっていた。血色の良くなった唇は紅をはかずとも十分に紅く、腰の辺りまで垂らされた髪はあるべき艶を取り戻した。
以前の痩せ細っていた面影はもう無い。
――――もし、今まで父が生きていたとしたら。
きっと○○を母の生き写しだと褒め称えたであろう。
笑顔と、女性本来の愛らしさを取り戻した○○は、幸せの中に在った。
未だ子供は産まれないが、猫族とも有効な関係を築き、劉備と天命を全うするまで共に生きる――――かつての自分は望みすらしなかった。無理だと決めつけていたから。
今の自分を見て、両親はどう思っているのだろうか。
山菜を摘む手を止めて○○は顔を上げた。雲一つ無い真っ青な天を仰ぎ、目を細めた。
まだ、見てくれているのだろうか。
ひょっとしたらもう良いかと目を閉じているのかもしれない。
そう思える程、今の暮らしは自分に過ぎた幸福だと思う。
ふっと口角を弛め、○○は再び地面に視線を落とした。
――――その時である。
右手から、気配。
首を巡らせた○○はあっと声を漏らした。
少しばかり離れた木の影から現れこちらに歩いてくる人物が一人。
その身形(みなり)、秀麗なかんばせには見覚えがあった。
「曹操殿」
劉備と夫婦になって戦うなと言われてから、ほとんど会う機会の無かった曹操である。
彼は○○と目が合うと足を止め、ふっと微笑んだ。
○○は笊(ざる)を抱えて曹操に歩み寄った。
「お久し振りです」
「ああ。健勝そうで何よりだ」
挨拶を交わし、そこで彼が一人であることに首を傾けた。
「供の方は、いらっしゃらないのですか?」
「村で待たせてある。お前がここに来ていると聞いた故、挨拶でもしておこうかと思ってな」
「……さすがに、危険だと思うのですが」
呆れた風情の○○が歩み寄ると、曹操はその頭をさらりと撫でた。
「劉備に用があってな。軍の編成を変える旨などを伝えねばならぬ」
「そうだったんですか。では、私がご案内します。劉備様も、村にいらっしゃると思いますし――――」
きびすを返したその時だ。
肩をいきなり掴まれ強く後ろに引かれた。
踏ん張ったところ、後ろから回ってきた手に顎を捕まれ、上向かされた。
直後、視界に飛び込んできたのは曹操の顔だ。
そのまま近付いてくるそれに、○○は咄嗟に笊から山菜を一房取って口の前に置いた。
……舌打ち。
曹操の眉間に皺が寄った。
「……では、村に行きましょうか」
「……」
彼は不満そうに○○を放した。
○○は、苦笑して山菜を笊に戻す。
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