‡‡‡




 あの騒動は、夏侯淵や従兄の夏侯惇にもすぐに伝わった。
 当然《お説教》行きだ。兄は説き伏せるのは簡単だが、従兄だけはそう上手くはかわせない。疲れていたのに、足が痺れるくらい長く捕まってしまった。勿論全部右から左に流してやったが。

 幸いにも小言以外は何も無かったので、○○はそれから三日置きに十三支の陣屋へ赴いた。張飛の傷の具合を見る為だ。

 最初こそ歓迎はされなかったが――――特に張飛は平手打ちしたことで完全に警戒されていた――――張飛の状態などを関羽に話している内に、徐々に他の十三支――――いいや、猫族とも親しくなった。曹操の屋敷にいる猫族の長へ手紙を請け負うこともあった。

 そうして、徐々に徐々に、居心地が良くなって離れたがらない自分に気が付いていった。

 猫族の場所では、家柄も身分も何も考えずにいられるのだ。
 名家の周りは闇ばかり。どす黒いモノばかりが渦巻いて息も出来ない。
 夏侯家の姫として、姫として、姫として。
 何もかもを縛られて……今も夏侯家のしがらみは○○の心に暗い影を落とす。

 夏侯淵や夏侯惇は、家名を誇る。
 その名に相応しい武人になろうとする。そしてそれを、○○にも強いる。

 でも自分にとっては拘束具のようなもので、自分が名乗っているということも厭わしい。
 解放されたいと、何度願っただろうか。誰も聞いてくれないか諦めるしか無いのだけれど。

 そんな諸々を、猫族の側では忘れていられるのだ。
 人間世界の重苦しいものとは無縁でいられる猫族が本当に羨ましい。汚れているのはむしろ人間で、この伸び伸びと暮らす猫族を利用する曹操が愚かに思えてくる。叱咤では済まないので口が裂けても言えないが。

 猫族に生まれたかった。
 彼らの姿を見ていて、そう思う。



‡‡‡




「すみません、関羽さんはいらっしゃいますか?」


 差し入れを持って猫族の陣屋に訪れると、迎えてくれたのは関羽ではなく張飛だった。
 傷もすっかり癒え、戦にも復帰している彼は○○とも打ち解けて、今では関羽に次ぐ友人だ。……まあ、たまにびくつくことがあるが。


「姉貴なら買い出し行ってるけど?」

「そうなの……では、これを。つまらない物なのだけれど、お菓子を買って来ました」


 途端に張飛の顔が輝いた。


「マジで? 丁度腹減っててさー!」

「え、まさか張飛さん一人で食べる気なの?」

「……まさかー!」

「今の間があったみたいだけれど……?」


 「私は皆さんに買ってきたの」と責めるように半眼になって見つめると、張飛は顔を逸らした。


「……関羽さんを待つことにするわ。あなたに任せたら、食べられてしまいそうだもの」

「うぐ……」


 差し入れを大事に抱えて、○○は吐息を漏らした。
 近く木の根本に座れば、張飛も隣に胡座を掻いた。

 ややあって、沈黙の苦手な彼は口を開く。


「……なあ、○○」

「なあに?」

「お前よ、ここんとこ毎日来てるだろ? 兄貴とか何か言わねえの?」

「言われるわよ。ぐちぐちと。言い負かしてるけど。ああでも、惇兄様は無理ね。あの人には口も勝てないの」

「それって、良いのか? お前にも立場とかあんだろ?」


 言われ、ううんと唸る。
 そりゃあ、夏侯一族として体裁を気にしなければならないだろう。自分が何か失態を犯せばその皺寄せは夏侯淵と夏侯惇に向かう。二人のことは好きだからそうなりたくはないけれど――――。


「でも、ここでは私は私らしくしていられるの。何にも考えなくて良いから。むしろここに来ると本当に助かるの。友達も、生まれて初めて出来たし。張飛さんや関羽さんと一緒にいる方がずっと快適」


 笑って言うと、張飛は「そっか」とほんの少しだけ嬉しそうに笑った。


「……けど、無理になったらオレ達にちゃんと言えよ。劉備に会いに行く時姉貴と会いに行けるかもしんねえし」

「うん。ありがとう。そうなったら曹操様に直談判して許してもらうわね」

「……そういや、あん時も曹操にオレ達の扱い考えろって言いに行ってたよな」

「一応天幕や物資について考えてくれるとお答え下さったわ。ちゃんとお話しすれば私のような者でも、曹操様は聞き入れて下さるの。だから何か要望があったら私がお話ししてみるから。いつでも相談してちょうだいね」


 ○○が小首を傾げて言えば、張飛は寸陰固まってぎこちなく頷いた。


「張飛さん?」

「あ……あー、あー!! 姉貴! 姉貴帰ってきた!!」

「え? あ――――あら、本当」


 突如声を張り上げて立ち上がった彼は前方を指差した。

 そちらに視線を向ければ、確かに洛陽の方から関羽と世平が歩いてくる。
 張飛が両手を振って関羽を呼んだ。

 すると彼女二人に気が付いて片手を振った。

 ○○は立ち上がって頭を下げた。


「い、行こうぜ!! 姉貴も来たし、それ食って良いんだよな!!」

「ええ、そうね。――――っと」


 ぐい。
 不意に手首を握られた。

 彼の手の堅さを感じた瞬間、心臓が跳ねるような感覚。
 走り出す張飛に従いながら○○は心の中で首を傾げた。

 今の……何?


「運動不足、かしら……?」

「何か言ったか?」

「あ、いいえ。何でもないわ」



――――気付かない。

 彼女はまだ気付かない。

 彼もまた、気付かない。



 芽生えた《花》が咲くのは、まだまだ先のこと。



後書き→


- 5 -


[*前] | [次#]

ページ:5/15