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 関羽はそれから二日程休み、以降普通を装って過ごした。

 朗らかに兵士達と接する彼女の心の中が、夜の闇よりも暗く、そして嫉妬などよりもずっと淀んでいることに誰が気付けよう。あの幽谷ですら、関羽を蝕(むしば)む狂気に気付かない。

 関羽の頭は一つのことで一杯だった。
 どのようにして、関羽をあの男から取り戻せるか、朝も昼も夜もそればかり。

 方法が思い付かない訳ではない。だが幽谷が悲しんでしまうのだと思うとどうしても後込(しりご)みしてしまうのだ。そんなことさえ無ければ、すぐにでも実行に移せるのに。別の方法を探す半端な自分に腹が立つ。

――――けれども、危うすぎる関羽の心は、いとも簡単に爆発する。


「ねえ、幽谷。今日はこれから町に行かない?」

「別に構いませんが……何かご用でも?」

「ええ。少し前に町に行った時に気になる店があったの」


 仕事を終え、廊下を幽谷と歩いていた関羽は、とろけるような笑みを浮かべて彼女を誘った。

 幽谷もまた仕事を終えているから、断る理由は無かった。快く了承してくれた。
 彼女と二人で町を歩くなんて久し振りだ。町の中ならあの男にも邪魔はされないだろう。いいや、邪魔をさせない。

 関羽は善は急げとばかりに幽谷の手を握って門へと向かう。


――――されども折悪く。
 邪魔をする声が幽谷の名を呼んだのである。


 幽谷が関羽の手を引いて立ち止まるのに、全身が冷え切っていくような感覚を得た。……駄目。


「すみません、関羽様。少しだけ、」


 幽谷は彼女の手をやんわりと剥がすと、あの男のもとへと小走りに向かう。駄目。

 関羽は伸ばしかけた手をそのままにして、茫然と立ち尽くした。
 そんな……名を呼ばれただけで?
 幽谷がわたしの手を剥がして、あの男のもとに行ってしまった。
 待てば良いじゃない。自分から行く必要なんて、わたしから離れる必要なんて――――無いじゃない!
 手がだらりと落ちた。

 駄目、駄目、駄目!

 幽谷は背を向けていて表情が分からない。だが代わりにあの男の顔が良く分かる。
 彼は幽谷にひきつった笑みを浮かべながら必死に何かを言っている。顔は牡丹のように真っ赤だ。

 気持ち悪い。汚らわしい。そんな顔、わたしの幽谷に向けないで。心の中で叫んだ。当然ながら、彼らには届かない。

 やがて、幽谷が首を縦に振ると、男の顔が弛んだ。嬉しそうな笑みだ。

 あいつも、幽谷のことが好きなんだわ。
 駄目よ。
 そんなの駄目。
 絶対に、駄目。

 だって幽谷はわたしの幽谷だもの。誰にも渡さない。絶対に……!

――――支配されていく。
 心も、頭も、真っ暗な闇に呑み込まれ、自分ではまともに操作が出来ない。手も足も口も、わたしはちゃんと動かせているのかしら?
 修羅が関羽のうちで燃え盛る。


 ……、もう、良い。
 もう良いわ。幽谷が悲しんだって良い。わたしが幽谷を笑顔にしてあげれば良いんだわ。
 あの男の声は邪魔。声だけじゃない、手も足も顔も――――全てが邪魔。


 あんな男、消してしまおう。



‡‡‡




 ついに、意中の人を食事に誘った。
 町の中を歩き回り、美味い店を見つけた労が報われて本当に良かった。

 約束は日が暮れてからだ。門の前で待ち合わせをしている。
 不安と楽しみで、まだ世界が橙に染まる今でもなかなか落ち着かない。

 彼は、今宵は食事だけでは済まさないつもりだった。

 幽谷に、想いを告げようと思い至ったのはつい昨日のこと。
 幽谷は見目が良く、また性格も悪くない。むしろ関羽の傍でだけ見せる表情を自分にも見せて欲しいと思う人間は、捜せば簡単に見つかる筈だ。四凶であるというのに人間の男を惹きつけて止まない彼女は、しかし魔性とも言えない清廉の人であった。

 彼女を愛したことに何の後悔も無かった。彼女を見ていると、四凶に対する厭悪すら消えてしまう。
 自分でも、末期だと思う。まさか生涯でこんなにも愛してしまう女性に巡り会うなんて誰が予想出来たか。……いいや、このような僥倖(ぎょうこう)が人などに予想出来よう筈もないか。


「……少し早いが、門の方へ向かうか」


 幽谷の場合、約束の時間よりも早く来ていそうだ。誘った本人が待たれていては格好が付かない。
 己の両頬を叩いて気合いを入れ直す。
 彼は私室を出て門の方へと足を向けた。

 ……断られてしまうだろうか。
 幽谷は関羽に絶対的な忠義を捧げている。それを理由に断られてしまう可能性は、遙かに高い。
 最近は良い感じになってきていると思うのだけれど、まだ忠義を優先する程であったら……ああ、不安だ。

 昔、町娘に一目惚れしてなかなか告白出来ずに結局別の男性に取られてしまった兵士がいた。物怖じして告白が出来ないという気持ちは、今なら良く分かる。確かにこれは非常に怖い。
 まるで戦のようだと呟いて、一人苦笑した彼はしかし、不意に後ろに人の気配を感じて足を止めた。

 肩越しに振り返ると、そこには幽谷の主、関羽が立っている。俯き加減になっている為前髪で目元まで隠れてしまっていた。両手が後ろに回っているのが、少々不自然だ。


「……今晩は。といっても、まだ夕方だけれどね」


 彼女はそのままふふふと笑った。肩が揺れてかかった髪がさらりと落ちた。

 ……普段の彼女と少し違うような気がした彼は、訝って身体ごと彼女に向き直った。
 関羽に近付いてみたところ、背中に隠れた彼女の両手が前に出た。

 関羽の口角がにいっと――――それこそ耳まで避けるのではないかと思う程につり上がった。

 その直後に見たのは、銀の煌めきであった。

















「……幽谷はわたしの幽谷なんだから」


 あなたには、絶対に渡さないわ。



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