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 村に戻ると、偶然かち合った関定に悲鳴を上げられた。

 その声に近くにいたらしい関羽が駆け寄ってきて、曹操を見るなり瞠目した。そして怒ったように眦をつり上げて両手を腰に当てた。


「曹操! あなたが勝手に一人で何処かに行ってしまってからずっと夏侯惇達が不機嫌で、張飛と喧嘩しそうだったのよ? 一人で彷徨くのは止めて!」


 恐らくは彼女が仲裁したのだろう。
 ○○と同様すっかり大人びて美貌に拍車がかかった関羽は、苛立ちも露わに曹操が自身の所属する軍の大将であることも気にかけずに彼を諫めた。そうしながら、さり気なく○○の手を引いて曹操から離す。

 曹操はそれを面白くなさそうに見つめ、しかし鼻を鳴らすだけに留めた。


「軍の編成を行う。明日数人をこちらに参らせよ。それに加え、そのことで劉備と話さなければならぬ」

「……もう良いわ。劉備なら、畑の方で世平おじさんと話をしている筈よ。○○、わたしが曹操を劉備の家に連れて行くから、あなたはこのことを劉備に――――」

「僕ならここにいるよ」


 関羽の言葉を遮って、世平と共に歩いてきたのは劉備だ。
 清廉な凛々しさを伴った顔は微笑みを湛(たた)えて曹操に向けられている。風に揺れる銀の髪が日光を反射し煌めいた。

 彼は、そっと○○の肩を抱き寄せた。○○が抗議するように劉備を見上げるけれども、その金の相貌は何処か警戒を帯びて曹操に向けられ彼女を見下ろすことは無い。


「やあ、曹操。さっき世平が夏侯惇達に知らせに行ったよ」

「それは面倒をかけてしまったな。礼を言う」

「良いんだ。こちらも、あの二人と張飛が衝突するのは避けたいから」

「ああ、こちらとしても軍の中で諍いが起こるというは少々のも問題となろうな。城に帰った後にでもこれは咎めておこう」

「ああ、一応張飛にも言っておくよ」


 ……何故、自分はここにいるんだろうか。
 いやに語気の刺々しい二人に、○○は遠くを見ながらそんなことを思う。

 この二人、どうも折り合いが悪いらしい。
 まあ曹操が○○にちょっかいを出してくるのが原因なのかもしれないが、それにしたって自分は劉備の妻なのだから、そう目くじらを立てる必要も無かろうに。
 関羽すらもその場から引かせるくらいに空気の剣呑な二人を交互に見た○○は、嘆息を禁じ得なかった。


「……ともかく、話をした方がよろしいのでは? 曹操殿。劉備様も」

「ああ、そうだな。すまぬ」

「劉備様、私はお話の邪魔にならぬよう外におりますので」


 そう言うと、彼は○○に穏やかな微笑みを向ける。そうしてごく自然な動作で○○の額に口付け、肩に置いた手を離した。


「そうしてくれるかな。ごめんね。もし長引くようなら関羽達の家にいて」

「はい」


 曹操に頭を下げてその場を辞すると、「わたしも手伝うわ」と関羽と、青ざめた関定も付いてきた。

 彼らに聞こえない辺りになると、関定が大仰に吐息を漏らす。


「怖すぎるぜ曹操対劉備様……昔はあんな感じじゃなかったのになー」

「大人になったってことよ」

「関羽、そうやって無理矢理まとめようとするなって。実際お前が一番嘆いてるだろ」

「嘆いてはいないわよ。また劉備が成長したなあって」

「じゃあ何で目が泳いでんだ――――ごふぅっ」


 関定の鳩尾に一瞬、何かが埋め込まれた。
 関羽の肘だ。

 その場に座り込んだ関定を放置して○○の手を掴んで歩き続ける関羽はふんっと鼻を鳴らした。

 ○○は関定を振り返って苦笑した。
 やっぱり、関羽の武には誰も敵わないんだろうなあと、しみじみと思った。



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 山菜を洗い終えた○○は、その場を通りかかった夏侯惇達と少しだけ談笑し、そのまま関羽の家で洗濯の手伝いをしていた。
 夏侯惇達を交えて茶でもしようかと関羽に提案したのだけれど、彼らは村の鍛錬場で張飛と暇を潰すことにするからと礼と謝罪を添えて断った。喧嘩寸前にまでなったという話だったが、鍛錬を共にするとは、仲が良いのか悪いのか……彼らの関係がよく分からない。

 曹操達は、洗濯を終えた頃に関羽の家にやってきた。


「曹操殿、話は終わったのですか」

「ああ」


 ○○に歩み寄ろうとした曹操を、劉備が阻む。○○の前に立ってそっと頭を撫でた。舌打ちが聞こえたが、ここはもう触れないことにしよう。

 劉備は曹操を振り返り、


「じゃあ、曹操。くれぐれもよろしく頼むよ。こちらでも、皆に話は通しておくから」

「……分かった」


 曹操は吐息混じりに頷くと、○○を呼んだ。

 劉備の長身痩躯で見えないので彼の横に出ると、曹操はふっと微笑んで「また会おう」と。

 ○○は笑みを返し、深々と頭を下げた。

 猫族が軍に入ってからだろうか、曹操は段々と柔らかくなっていった。
 昔は冷徹そのものだった彼が……今でも意外に思う者も少なくない。
 猫族が彼の心に影響を与えているのであれば、それはとても嬉しいことだ。凍り付いたままでは、あまりに寂しいから。

 曹操はくるりときびすを返すと足早に関羽の家を出た。高らかに夏侯惇達の名前を呼び、出口に歩いていく。

 彼の見送りに行こうとすると、関羽が「わたしが行くから」と先に家を出た。

 ややあって、劉備は溜息をついて○○の身体をそっと抱き寄せる。ぎゅっと力強く抱き締めた。


「……劉備?」

「曹操に何かされた?」

「何か……いいえ、何もされなかったわ。ただ、ちょっとだけ話をした程度、かしら」


 口付けられそうにはなったが、あれは未遂だ。言う必要は無い。
 劉備は○○の肩口に顔を埋め、沈黙する。
 やけに甘えてくる。

 ○○は首を傾げた。


「劉備?」

「……昔の夢を見たんだ。朝は忘れていたのに、曹操を見たら何故かふと思い出した」


 僕がまだ、逃げていた頃だ。
 ○○は目を伏せ、そっと背中に手を回した。

 劉備は未だ、過去に罪悪感を抱いている。
 まだ、○○に負い目を感じている。もう○○○は何も気にしていないのに。
 いつか彼がそれすらも笑い話に出来るよう、○○は切に願ってそっと背中を撫でた。


「あの頃、何度君を抱き締めたくて苦しい思いをしただろう。自分が招いたことなのに、○○が一番辛いのに、勝手に傷ついて……あの頃の自分がちっぽけで情けない」


 けれども今は違う。
 やっと、君のこの手で抱き締めることが出来る。
 曹操から取り戻そうと衝動に任せていなかったら、こうはならなかったかもしれない。きっとまた、君が傷ついていたかもしれない。
 劉備の声は僅かに震えていた。


「そう思うと、本当に嬉しいよ。今、君に触れているこのつかの間でさえも、自分の命よりも尊く思える」

「……私は、ちょっと違う、かな」


 ぼそりと呟けば、彼はぎょっとして○○を放して顔を近付ける。

 若干の焦りが窺える夫に、○○はそっと笑いかけた。


「あなたは私を――――私という命を愛してくれている。だから、この命が一番大事なんです。何にも変えられない、変えたくないわ。私も、劉備という命を愛している」

「――――」


 金色の瞳が潤んだ。
 また、そっと抱き寄せられる。


「ああ、○○……ありがとう」


 劉備は自分を愛した。自分の全てを愛おしいと言ってくれた。
 たったそれだけで、今までの辛いことが報われたのだ。これは過言ではない。
 お礼を言いたいのは、こちらの方。

 ○○は劉備の名前を呼び、その頬に口付けた。



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