伍
取り敢えず夕餉の支度を、栞喃は村に戻った。
夏侯淵のことは、本人になるべく音を立てず大人しくしているように言い聞かせているから問題は無い、と思う。
狗族の嗅覚に引っかかってしまえばそれも意味の無いことなのだけれど、今彼に出来ることと言えばそれしか無かった。
栞喃は川辺にて籠を回収し――――念の為魚は捨てて穫り直した――――平静を装って村へ入る。一応、川辺で転んだと偽って水を浴び匂いを消しておいた。
狗族の村は、断崖に挟まれている為に南北二つしか出入り口が無い。
小屋がある方向――――南門から村に入ると、彼女に気が付いた少年がこちらに駆け寄ってきた。
「栞喃」
「ああ、那鐘(なしょう)」
那鐘というこの、栞喃と同じ程の年の彼は栞喃の前に立つとそっと手を差し出した。くるくるした癖っ毛は相変わらずだ。
栞喃が首を傾げつつその下に手をやると、掌に何かが落とされた。
それは翡翠だ。狡の形を象っている。細かなところまでこだわられた意匠である。
誇らしげに笑う那鐘に、栞喃は首を傾けた。
「これ、くれんの?」
「ああ!」
「要らない」
ぽいっと投げ返す。
すると彼はちっと舌打ちするのだ。
狗族では、古(いにしえ)の慣わしとして、求婚する際には男が翡翠を狡の形に彫った物を女に贈る。
女はそれに答えるのならば尻尾を触らせ、そうでなければそれを男に返す。
ただ、最近は簡略化され、単純に尻尾を触ろうとしてそれを避ける避けないかになっている。
年頃の栞喃は狗族の男達から何度も求婚されていた。
だが、那鐘のように、昔の慣わしに従う者は珍しい。……というか、そんな無駄手間を何度もやるのは那鐘だけだ。
求婚は一度きりなんて決まりは無いから、那鐘は何度も何度も翡翠を彫っては栞喃に渡してくる。全て突き返されているが、それでも諦めないのだ。
しかし、栞喃にとっては幼なじみでしかない那鐘の求婚には、この先絶対に答えることは無い。
それを随分と前にはっきりと伝えているのだけれど……諦めない。
正直、辟易している。
「どうしたら、応えてくれるんだよ」
「無理。絶対に応えない。あたしにとってはあんたは幼なじみなんだ。そういう対象に見えない」
こればかりはしょうがないよ。
そう言うと、那鐘は唇を尖らせた。
「ほら。行った行った。あたしは魚を家に置いてきたいんだから」
「あ、ちょっ」
「それ彫ってる暇があるんなら、そろそろ一人前に狩りが出来るようになりな」
途端、那鐘は声を詰まらせた。
彼は狩猟が大の苦手なのだった。魚も上手く穫れないし、獣なんて夢のまた夢だ。
栞喃なんて、十の頃にはすでに猪すら容易く仕留められていたというのに……。
それで栞喃に求婚しているのだから、ある意味命知らずである。狩猟も出来ぬ男を、栞乂が許そう筈もあるまい。
栞喃は呆れたように吐息を漏らし、彼に背を向けた。
「あ、栞喃!」
「じゃあね」
ひらひらと片手を振って家へ真っ直ぐ歩く。
栞乂や栞喃の家は族長であるが故、村の真ん中の集会所に建てられている。他の家屋よりも多少広いだけだ。
家の中には父がいた。
何事も無かったかのように斧を研ぎながら、「魚はどうだった」と問いかけてくる。
栞喃も何事も無かったように籠を持ち上げてみせた。
「少なくとも夕餉の分はあるよ」
「そうか」
彼は本当に、今のところは夏侯淵を見逃してくれるらしい。
それをありがたく思いつつ、栞喃は家の奥に入った。
‡‡‡
夕餉を作って、自分と夏侯淵の分を確保して村を抜け出す。
誰も付いてきていないことを確認して小屋を訪れると、夏侯淵は眠っていた。
小屋の隅の灯台に、持ってきた火付け石で灯りを点して夏侯淵の側に腰を下ろす。持ってきた食料を床に並べた。
疲労があって眠っているのだろう。
起こすのは憚(はばか)られた。
栞喃は夏侯淵の寝顔をまじまじと眺めながら、彼が起きるのをじっと待った。
「……しっかし、男のくせに綺麗な顔してんなあ」
人間の男って、こんなもんなのかねぇ。
睫が長いのも人間だから?
「でも、筋肉はわりかし薄い……。人間の男ってこんな細っこいのかな」
「細っこくて悪かったな」
「ん?」
顔を上げれば、夏侯淵が目を開けていた。不機嫌そうに栞喃を見上げている。
「ああ、起きたんだ。お早う。食事持ってきたよ」
「……ああ」
のっそりと起き上がるのを支えてやり、焼いた肉を持たせてやる。
そこで、はたと気が付いた。
「ねえ、夏侯淵。あんた今固形の物食べれる?」
「多分な」
「無理そうなら、あたしが噛んで口移しするけど」
「…………いや、良い」
「あ、そう」
本当に大丈夫か?
首を傾げながらも、本人の意思を尊重する。自らも魚にかじり付いた。
「食べれなかったら残しておいて良いよ」
「すまない」
「気にしないで良いよ。怪我人なんだからさ」
食べれなかったら、栞喃が食べる。それだけのことだ。
栞喃は無理をしないように夏侯淵の食べる様を観察しながら、ふと思い出したように話を切り出した。
「そう言えば、夏侯淵って何処の人」
「……兌州に身を置いていた」
「兌州?」
兌州って……。
「確か、ここから遠く離れた場所だったと思うんだけど。え、なに、あんたって川をずっと流れてきたの?」
「え?」
夏侯淵は、瞠目した。
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