栞喃はどっと汗を掻いた。
 ヤバい。
 親父様にバレていたなんて!

 栞乂は、怒っている風こそ無いが警戒する眼差しを夏侯淵に向け、その大きくて硬い手は、彼の得物――――柄に血の染み込んだ戦斧に触れている。
 栞乂は村一番の猛者だ。栞喃が抵抗したとて勝てる見込みなどあろう筈もない。まして、栞喃でなく夏侯淵ならば尚更だ。

 だが、ここで彼を見殺しにするなんて、目覚めが悪い。

 栞喃は夏侯淵を後ろに庇って土下座した。額を床に付けんばかりに平伏して声を荒げた。


「お願いします! 見逃して!!」

「おい、栞喃……?」

「……見逃す、だと?」


 栞乂の声が一層低くなる。重厚な声に背筋に悪寒が走った。
 だが、こればっかりは引けない……!
 折角助けた夏侯淵を殺させてしまうのは、栞喃自身後味が悪い。殺させる訳にはいかなかった。

 お願いしますと何度も頼み込んだ。

 すると、夏侯淵が栞喃の隣に座った。痛みに呻く様が目の端に映った。
 傷に障るからと止めさせようとし彼女が顔を上げるその直前に、彼は口を開いた。


「迷惑なのは分かっている。だが、傷が治るまでで良い。歩けるようになればすぐにここを出て行く。それまでは、どうかここにいることを許してくれ」


 舌打ち。
 栞喃が顔を上げれば、栞乂は憎らしげに夏侯淵を見下ろしていた。


「……人間とは、斯(か)くも不貞不貞(ふてぶて)しい生き物よ。迷惑と知りつつここに居座るか。かつて、お前達人間が猫族と儂らに何をしたのか、己らの業の深さを知りもせずに……まこと卑しい生き物だ」

「……っ」


 夏侯淵が唇を真一文字に引き結んだ。悔しいのだろうが、何も言わずに栞乂の言葉に耳を傾けている。

 人間は、かつて大妖を討ち倒した英雄とその軍を根も葉も無い噂を流して虐げ、追いやった。それというのも、彼らが怪物と手を組んだことに始まり、果ては大妖の呪いを受けて半妖化した為である。
 その英雄と彼の軍の子孫が猫族。彼らに手を貸した怪物が、狡。
 真実を知る者達は、もう狗族の他にはおらぬ。強いて言えば、悠久の時を生きる仙人達だろうか。

 人間にとって狗族は、今では存在しないことになっているとは言え、猫族とほぼ同じ扱いだという。

 つまりは、狗族は卑しいと蔑む存在なのだった。

 そんな彼らに露骨な侮蔑を向けられているのだ。頭を下げて頼み込んでいる彼は、相当屈辱に感じているだろう。

 栞乂は黙り込んだ。険の滲む顔で、夏侯淵をじっと見つめる。


「親父様……」

「……その傷が治るまでだ。それ以上の長居は許さん。栞喃以外の我が一族とも接触するな。すればただちに死だ」


 栞乂の言葉に、栞喃は長々と吐息を漏らした。彼が夏侯淵に何を思って許可したのかと考えると少しだけ怖いが、それでも取り敢えず夏侯淵の命は繋がったのだ。それだけでも良しとしておこう。
 栞喃は立ち上がると、栞乂に駆け寄った。


「ありがとう、親父様」

「後は、自分で面倒を見ろ。儂は村の者には何も言わん。あれが殺されても何も言わぬぞ。むしろ、賛同する」

「うん。今は見逃してくれるだけで構わないよ」


 もう一度礼を言うと、栞乂は無愛想ながらに彼女の頭を撫でた。
 彼は夏侯淵を一度睨み、大股に部屋を出て行った。

 栞喃は扉が閉まるのを見届けて、ほうと胸を撫で下ろした。


「た、助かった……!」

「……すまない。オレの為に」

「ああ、気にしないで良いよ。折角助けたあんたを見殺しになんてしたら、後味が悪いだろう?」


 良かったと呟いて夏侯淵に笑いかけると、彼はぐにゃりと顔を歪めた。
 痛いのかと支えようとすると、やんわりと拒んできた。どうやら傷が痛むのではないらしい。

 夏侯淵は自ら横になると、すっと目を閉じた。

 栞喃はその側に座り込んで腕組みした。
 見逃してもらえたのは良い。けれど問題は――――栞乂以外の狗族に見つかった場合だ。
 この小屋にいれば、見つかる可能性は高い。何処か別の場所に移動させなければならぬ。
 だが、今の彼の状態を見るに、それも難しそうだ。

 どうしようか。
 小さく唸ると、夏侯淵が胡乱げに栞喃を見上げてきた。


「どうした、栞喃」

「いや、ここじゃ狗族の者に見つかっちまうからね。ここは移動した方が良いんだが、どうしようかと思ってさ」

「……そうか」

「ああ、無理しなくて良いよ。何とか、あたしがあんたの身体に負担がかからないよう方法を考えてみるからさ。あんたは大人しく安静にしてな」


 夏侯淵は暫し思案した。


「……二日」

「二日?」

「二日だけ休ませてくれ。そうすれば、歩いて小屋を出ていく」


 いや、無理だろう。
 夏侯淵の傷も、体力の消耗も酷い。
 二日休んだとて歩けるとは到底思えないのだが――――。


「本当に、大丈夫なのかい? 顔、青白いけれど」

「ああ。オレとて武将だ。柔な身体じゃない」


 武将、ね。
 栞喃は片目を眇めた。
 武将という身分の人間が沢山の兵士の先頭に立って、沢山の人間を殺す職業なのだと彼女は友人から聞いたことがある。

 彼も……そうなのだろうか。
 殺した人間を誇りとして、生きているのだろうか。

 正直、理解が出来ない。


「栞喃?」

「……ううん。何でもないよ」


 栞喃は、怪訝そうに見上げてくる夏侯淵に、苦笑を浮かべた。



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