栞喃が夏侯淵を舐めたのは、彼が赤子のように泣くからだ。
 狗族の女は赤子をあやす時は必ず顔を舐めてやる。夏侯淵は手で顔を隠していたから、仕方なくその手の甲を舐めただけなのであった。

 不思議そうにそれを語る彼女に、夏侯淵は脱力した。一人羞恥に顔を赤らめ狼狽えた自分が馬鹿らしい。


「ねえ、名前は?」

「……夏侯淵」

「夏侯淵。……案外普通の名前だね」


 どんな名前を期待したんだ。
 そうツッコもうとしたが、その前に馬鹿馬鹿しくなって止めた。

 栞喃は噛み砕くように夏侯淵の名前を反芻(はんすう)し、不意に彼を呼んだ。応(いら)えを返せば彼女は夏侯淵の横の髪を避けてこめかみ――――いや、耳を凝視した。何がそんなに珍しいのか、なんて思っていた彼はしかし、次の瞬間固まった。


「何で木耳(きくらげ)が生えてんの?」

「は!?」


 栞喃が耳を触る。ということは、木耳とは夏侯淵の耳のことで――――。


「ばっ、馬鹿か!?」

「え?」

「これは耳だ!!」


 栞喃は沈黙した。耳をいじる指の動きが止まる。


「み、み……」

「……」

「…………き」

「……き?」

「気持ち悪っ!!」


 栞喃は青ざめて夏侯淵からがばっと距離を取った。耳を触っていた手をひらひらと振っている。
 本心からなのだろう彼女の言葉に、こめかみが震えた。


「は、ちょっ、人間の耳って木耳なの!? 正気!?」

「何が木耳だ! というか、正気かどうかなんて関係ないだろ!」

「……あ、それもそうか」


 掌にぽんと拳を置き、栞喃はまた夏侯淵のこめかみに顔を寄せてくる。眉根を寄せ、「これが耳ねえ」などと何度も呟く。

 十三支と会った時は人間の耳に驚きはしなかったのに、狗族は人間という物を見たことが無いのだろうか。


「尻尾も生えてないし、何か変な感じ……ちょっと気味悪いかも」


 栞喃の言葉に、夏侯淵は唇を歪める。狗族にそのようなことを言われるなんて……。
 まさに、十三支に対する人間(じぶんたち)のようではないか。
 ただ、彼女には物珍しさだけで、蔑視などは全く感じられない。気味が悪いとも、本当に見慣れぬものを見たと言うだけの、些細なものなのだろう。

 夏侯淵は栞喃の顔を押しのけた。いい加減、鬱陶しい。

 すると彼女は鼻を鳴らして自分の尻尾を持って指で梳(す)くのだ。
 良く手入れされているのだろう。漆黒の艶やかな毛は柔らかく、さらさらと指が引っかかることも無い。

 それをじっと見つめていると、栞喃はぴんと耳を立てた。かと思えば腰を上げた。


「おい……?」

「近くに誰か来たみたいだから、ちょっと行って来るよ。あんたは、見つからない方が良い」


 誰か。
 恐らくは狗族の者だろう。
 見つからない方が良い、なんて……今栞喃以外の狗族に夏侯淵が見られたら、どうなってしまうのだろうか。……十三支に人間がするように、虐げられてしまうのだろうか。

 思えば、自分はここに一人だ。
 自分と同じ《生き物》が全く存在しないのだ。

 人間は、己と同じ姿でないが為、猫族を十三支と蔑み、虐げた。
 もし、狗族が人間に排他的な一族であるのなら――――下手をすれば自分は殺される。

 死が怖い訳ではない。元々自分はあの時死ぬ筈だった。今更死のうがどうなろうが変わりはしない。

 ただ――――自分が人の世に於(お)ける十三支の立場に立つなどとは思いも寄らなかった。

 栞喃が小屋を出ていった後、夏侯淵は一人長々と吐息を漏らした。



‡‡‡




「栞喃か」

「親父様」


 小屋の近く、小さな泉の畔で兎の皮を剥いでいたのは栞喃の父、栞乂であった。一族長として風格は十分で、所々に傷跡があるばかりか、両の耳もギザギザと切れてしまっている。
 栞喃は父の側に立ち、彼の手際を見下ろした。そして、そう言えばと魚を入れた籠のことを思い出した。今はもう、駄目になっているだろう。
 穫れなかったんだって言ったら怒られてしまうか。


「栞喃、この辺で見慣れぬ奴を見なかったか」

「見慣れぬ奴?」


 どきり。
 心臓が跳ねた。
 多分――――否、間違い無く夏侯淵のことだ。

 狗族は気位が非常に高い。
 そして、人間を下賤と見下し、蔑んでいる。
 栞乂がどのような判断を下すかは分からないが、過激な男衆は彼を殺そうとするかもしれない。
 何とかして隠さなければ!


「それが、どうしたっての?」

「いや、嗅ぎ慣れぬ匂いを見つけてな。もしや、余所者がここに迷い込んできたのではないかと思ったのだ。栞喃。見ていないのなら良いが、気を付けておけ。人間であれば尚のことだ」


 栞喃は神妙に頷いた。

 夏侯淵は、やっぱり隠した方が良さそうだ。
 栞乂も人間のことは警戒している。彼に夏侯淵を会わせれば、運良く殺さずに済んだとしても、問答無用でこの谷を追い出されそうだ。
 あんな重傷で追い出されたら、確実に野垂れ死んでしまう。
 助けた手前、それだけは絶対に避けなければならない。


「分かったよ。じゃあ、あたしその辺見回ってくる。見つけたら、親父様に?」

「ああ。儂は、皆にこのことを話してこよう。必ず、人間に捕まるんじゃないぞ」

「うん」


 栞乂の側から離れ、栞喃は駆け出す。つ、とこめかみを冷や汗が伝った。
 これは危ない。
 あの小屋に居続ければ、きっとそのうち村の者に見つかってしまうだろう。小屋に潜伏しているという疑いは、すぐに浮上するだろうから。

 栞喃は小屋に戻ると、周囲の様子を見渡して身を滑り込ませた。

 夏侯淵は栞喃の表情に眉根を寄せる。


「……どうした」

「あんたがこの辺りに迷い込んできたこと、親父様が感づいちまった。ここに居続けるのは、危ないかも」


 だが、だからといって怪我人の彼を何処かに移動させることは出来ない。
 どうしよう……夏侯淵の傍らに鎮座して腕組みした。ぐぐっと眉根を寄せて唸るように悩んだ。

――――その時である。

 小屋の扉が乱暴に開かれた。


「やはりな」


 栞喃はさっと青ざめた。


「己から匂いのすることに、考えが行かなかったようだな。栞喃」

「お、親父様……」


 少しばかり、苛立ちの滲んだ父に、栞喃は震えた声を出した。



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