壱
彼は《それ》に問いかけた。
何故、お前は我らに力を貸すのかと。
彼には解せなかった。
人間でない、怪物とされる《それ》があの大妖でなく、脆弱な人間達に協力しようとしてくれているのだから。
彼は《それ》の行動が不思議でならなかったのだ。
警戒を滲ませる彼に、《それ》はくすくすと、まるで少年のように笑った。
『さあ、何故だろうか。けれども我は、人間のことは嫌いではないのだ。何故お前達に力を貸すのか、その問いに対する返答は、それにしよう』
人という存在は脆く、己の欲に従順な生き物だ。
されど、それもまた人の強さの根源でもある。
誰かを守ろうとするそれもまた、人の欲。
その欲は、個人の力を強くする。
まこと、興味深い。
けらけらと笑う《それ》に、彼は首筋に手を当てた。さすりながら片目を眇めた。
信用して良いのかならぬのか……判断に困ってしまう。
さて、どうしたものかと悩んでいると、《それ》はふと笑声を止めた。
急に真剣な表情になって天を仰いだ。
『お前達人間には、分かるだろうか。この世界の澱(よど)んだ空気。今となっては、世の何処にも清らかなる場所はあるまいよ。近く、我もこの邪気に捕らわれ、自我を失おう。嫌いでない人間達を襲うなど、我が許そう筈もない。あれを止める者あらば、出来うる限りの協力はしようぞ』
《それ》は言い、彼に手を差し出した。
何だと問えば、この手を取れ、と。
『我が、お前達に知恵を授けようぞ』
あの猫を倒したいのであろう?
彼は《それ》を見据え、暫し思案した。
解せぬ化け物に協力を申し出されても、はいそうですか、嬉しく思いますと受け入れられるものか。
差し出された手を見下ろし、彼は唸った。
《それ》は彼が結論を出すことをじっと待ち続けた。
人は悩む生き物だと、《それ》を知っている。だからこそ、急かそうとはしなかった。
だが、人の世に今時間が残されていないのもまた事実。
彼もそれは十分に分かっているだろう。いつまでも悩んでいる訳にはいかないことも、理解している筈なのだ。
それに、人間達の力だけではあの猫には到底勝てないであろうことも、彼は知っている。
今自分の手にあるものを考えてみれば、答えは自ずと出るだろう。
暫くして、彼はゆっくりと手を上げた。
その武骨な手は――――《それ》の手をしっかりと握り締めた。
《それ》は満足そうに頷いた。
‡‡‡
今から、お前だけに結界を解いてあげよう。
お前だけ特別だ。
我が子達が人間と触れ合うのも、お前が最初で最後。
さあ、平和なこの谷で、傷を癒して行けば良い。
我が、かつての同胞を思い出したるも、人間が流れ来るも、ただの偶然だ。
たまには、この偶然に一つ手を加えるも一興。
この谷にて、お前に何が起こるかまでは保証はせぬがな。
けらけら。
けらけら。
けらけら。
その笑声が、やけに耳に残っていた。
‡‡‡
栞喃は一人、村から離れた川で魚を捕っていた。手作りの銛を片手に川の中に立ち、捕った魚を腰に下げた籠に入れた。
川の中に潜りでもしたのか、全身ずぶ濡れで着ていた服はぴったりと肌に張り付いてしまっている。うっすらと肌が見えていた。
彼女は、見てくれこそ十代後半程の自由闊達(かったつ)な娘だ。
だが――――黒い頭には、真っ直ぐにぴんと立つ犬の耳があった。時々動かしては周囲の音を拾う。
それに加えて尾骨からは濡れそぼった尻尾が垂れている。ままに、ふらふらと揺れた。
栞喃は、人の身に犬の耳と尻尾を持つ、狗族(ごうぞく)と呼ばれる一族であった。
古より、狡(こう)という怪物がいる。
狡とは『山海経』に登場し、犬に似た身体に豹の如き斑模様、そして牛の角が生えているという。犬と同じ鳴き声で、玉山という山に住んでいる。
怪物と記述するものの、狡は出現するとその国が豊作になると言い伝えられていた。
狗族は、その狡が何の縁があってか、狡と人間の娘の間に産まれた子供が祖となり、永らく続く一族である。
耳と尻尾は、狡より受け継いだ狗族の証と尊ばれ、それぞれ身内以外に触らせることは無い。あるとすればそれは、求婚に応じる意だ。
族長の一人娘でもある栞喃は、その天真爛漫な性格から村の誰からも愛され、次期族長として大切に育てられた。それこそ、絶対に耳や尻尾を一族の男に触らせないよう周囲が本人以上に警戒するくらいに。
周りの温かい目もあって、母が幼い頃に病死しても心身共に健やかに成長した。
ただ、何にでも好奇心が旺盛すぎるのが、玉に疵(きず)なのだが――――。
「こんくらい穫れば、十分か」
栞喃は籠の中を見て、満足そうに頷いた。
そろそろ戻ろうかと川を上がった時、ふと上流の方を見て、彼女は首を傾ける。
……何か、流れてきてる?
大きな塊だ。時折岩にぶつかりながら、こちらへ流れてくる。
何だろうかとそれに近付いた栞喃は、それが何なのかを理解した途端籠を投げ捨て川に飛び込んだ。
塊を掴み、抱き寄せる。
力無くぐったりとしたそれは生き物だ。
栞喃と同じような姿でありながら、犬の耳が無い――――人間だ。
何故ここに人間が……疑問に思うよりもまず、彼女は人間を川辺に横たえた。鼻に耳を寄せ、息をしていることを確認する。だが、酷く弱々しい。このままでは死んでしまう。
栞喃は彼の胸に走った一線を見、眼を細めた。
綺麗に斬られている。余程の手練れにやられたのであろう。今生きていることの方が不思議だ。しかも、血は完全に止まっている。
傷に触れようとして、彼女は「駄目だ」と首を左右に振った。
「……今はとにかく、何処かで手当てをしてやらないと」
確かこの近くに小屋があった筈。つい最近、小屋常備の薬も村の者が入れ替えた。
栞喃は一つ頷くと人間の身体を少し重たそうに抱き上げた。傷に響くかもしれないが、幾ら身体能力の優れた狗族の娘であっても、自分の身体よりも大きくてがたいの良い彼の身体を抱き上げるのはキツかった。
人間は、呻きもしない。起きた気配も全く無かった。
「……もう少しだけ、頑張ってよ」
そうしたら、手当てしてやれるからさ。
意識の無い人間に、彼女は声をかけ続けた。
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