参拾玖
『達者で暮らせ』
頭の中で反響する重厚な声。
今まで毎日のように聞いていた親しみのある声だ。
もう聞けないんだろうな、この声は。
『やはりお前は絹楠の娘だ』
『達者で暮らせ』
何で、彼はあんなことを言ったのだろうか。
自分は追放された身だ。
狗族であることすら許されない筈。
だのに、『達者で暮らせ』なんて、まるで送り出すかのような言葉をかけた?
分からない。
父の真意が、分からない。
‡‡‡
揺れる。
揺れる。
揺れる。
一定間隔で揺れる感覚に、徐々に意識が浮上する。
目を開けると、栞喃は誰かに負ぶわれていた。
頭に走った激痛に彼女は呻きを漏らす。
すると、彼女を負ぶっていた人物がこちらを振り返った。
夏侯淵だ。
「夏侯淵……」
「傷の具合はどうだ?」
「……」
……ああ、そうだ。
自分は耳をもぎ取ったんだ。
……何であんなことをしたんだったか。あの時は混乱していた上に精神状態もよろしくなかったとは、自覚しているけれども。
一度眠った――――というか絶入(ぜつじゅ)した――――後だと、比較的頭も心も落ち着いた。今思うと、耳をもぎ取るなどと、自分でも自分の行動が不可解であった。
頭に手をやって、包帯を巻かれた患部を撫でた。
「これ、夏侯淵が?」
「いや……偶然猫族の男に会ってな。面識があったから、お前の手当を頼んだんだ。それで分かったんだが、ここは以前オレ達が出たあの森とは違うらしい」
そこで、栞喃は周囲を見渡す。
けれども、ここではないと夏侯淵が否定した。
「……出口が変わったってこと?」
「そうらしい。これからどうする?」
どうするって……そんなの、決まっている。
「この世界でひっそり暮らしていくしか無いじゃないか。あたしはもう谷を追い出されちゃったんだしさ」
……もう過ぎたことをとやかく言っても仕方がない。
そう、自身に言い聞かせ、努めて平静を保ちながら栞喃は答えた。
今自分がどう思ったとて事実は変わらない。
栞乂は娘を罰し、谷から追い出した。
達者で暮らせ――――なんて、矛盾した言葉をかけて。
父の真意を考えたって、今は時間の無駄だ。
平気だと言えばそれは嘘になるが、どうにもならないことをぐだぐだ言うよりも、先にするべきことを片付けた方がよっぽど建設的だ。落ち込むのも悔やむのも、それからで良い。いや、その方が良いのだ。長く引きずっていては夏侯淵に迷惑がかかってしまう。
「そうか。じゃあ、まずはその場所を見つけるところからだな。ひっそり暮らすなら、山奥の方が良いか……」
「そうそう」
……。
……。
……ちょっと待て。
「夏侯淵、何かおかしくないか」
「何がだ」
「何か……あんたも一緒に探すみたいに聞こえたんだけど。気の所為だよね、あたしが勝手に思っただけだよね」
否定して欲しかった。
けども、彼は不思議そうに「そのつもりだ」と。
さも当然のように言うものだから、一瞬だけ呆気に取られてしまった。
ややあって、口からこぼれたのは。
「……あんたは馬鹿か!」
「は!?」
「あんたは兌州に戻るんだろ。巻き込まれただけなんだからここまであたしに付き合わなくったって良いじゃないか」
夏侯淵はあくまで巻き込まれた人間。そこまで栞喃に付き合う必要は無いのだ。
そう言うと、夏侯淵は呆れ果てたような、疲れ切ったような大仰な溜息を漏らした。肩越しに振り返る彼の切れ長の目は何処か恨めしげだった。
「今のお前を放置出来るか。……それに、こうなったのは、元はと言えばオレが狗族の谷に流れ着いたからだろ? 元凶のオレが責任を取らないでどうする」
お前が一族を捨てることになったのなら、オレも捨てるべきだ。
はっきりと断じた夏侯淵に、栞喃は沈黙した。罪悪感が胸を突き刺す。
「何もそこまでしなくても……」
「――――オレはお前が好きだ。だから、責任を取ることに迷いも何も無い」
「な、」
また、言うのか。
栞喃ははああと息を吐き出した。
好きだからと言って、付き合う理由にはならない。
夏侯淵には夏侯惇達がいる。この世界に、掛け替えの無い存在がいる。
それを栞喃の為だけに切り捨てて良いとは、到底思えなかった。
一度帰ったのに。
「夏侯淵。あんたは兌州に帰りなって」
「だったらお前も一緒に連れて行く」
「……あのねぇ」
夏侯淵は頑なに、栞喃と共に行くことを譲らない。
……後悔するに決まってる。
狗族がこの世界でどのように扱われているか、栞喃はその片鱗しか知らぬ。知らぬからこそ、共に行動する夏侯淵に多大な迷惑をかけるだろうことは容易に想像出来た。
今はそう言う風に思っていても、いつか嫌になるかもしれないじゃないか。
栞喃がこの世界で頼れるのは夏侯淵一人。
その夏侯淵に切り捨てられるのが怖い。
栞喃は夏侯淵の肩に額を付け、もう一度彼を呼んだ。
「あんたは、捨てなくて良いんだ。大事なものなんだろ? あたしはあんたらのところにいたら確実に迷惑になるんだから」
「ああ。だがそれは栞喃だって同じだ。それに迷惑くらいオレの方がかけただろう。それに比べたら――――」
「……っだああ! あんたしつこい、本当にしつこい! 人が折角気を遣ってやってんのに!!」
「っ、耳元で騒ぐな!!」
痺れを切らして栞喃は声を張り上げた。
いい加減折れて欲しい。
大切なものを切り捨ててまで自分に付き合ってくれなくて良い。
むしろ、同じようになって欲しくない。
自分のような気持ちにはさせたくない。
色んな感情が綯い交ぜになって涙腺を刺激するのを誤魔化したくて、癇癪を起こした風を装って声を張り上げる。
夏侯淵は耳元で上げられた大音声に顔を歪めるも、その声が震えていることに気付いて、それ以上責めることはしなかった。
代わりに、
「栞喃」
「……何」
「好きだ。忘れろとは言ったが、やはりこれだけは忘れないでくれ。オレはお前が本気で好きだから自分の過去を捨てられるんだ。お前だけに、辛い思いをさせるのはオレが耐えられない」
……止めてくれ。
優しい声音に抑え込んで、後回しにしていた感情が首を擡(もた)げる。
ぎりっと歯軋りをしたその直後、頬を熱い物が伝い落ちた。
肩に爪を立て、栞喃は声を絞り出す。
「馬鹿だって、本当に」
「……、もう馬鹿で良い」
そこで、一旦会話が途切れる。
さく、さく、ぱき。
枝の混じる腐葉土を踏み締める足音と、森のさざめき、鳥のさえずりが沈黙を埋めた。
――――木漏れ日が降り注ぐ中、どのくらい歩いた頃だろうか。
ふと、栞喃は口を開いた。ぽつりぽつりと本心を吐露(とろ)する。
後回しにするつもりでいた本心は、顔を濡らす熱い物と共に長い時間をかけてゆっくりと声に乗って吐き出された。
途中嗚咽の混じり始めた栞喃の言葉を、夏侯淵は歩きながら黙して聞いていた。全て受け止め、ほんの少しでもこの少女の気が晴れることを願う。
その間にも、夏侯淵への八つ当たりにも似た悪口は度々入り込んできたのだけれど、夏侯淵は栞喃の気が収まるまでと、沈黙を続けた。
「……ごめん」
最後に、掠れた声で栞喃は謝罪した。
何度も何度も繰り返した。
夏侯淵は何も言わず、あやすように栞喃を抱え直した。話すことがあるならまだ聞いてやる――――無言の意思表示にまた泣きそうになる。
「……ありがと、ごめん」
そうして、彼女はぽろりとこぼすのだ。
閉じ込めた別の感情、それを表すその二文字を――――。
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