参拾捌


※注意



 川底に落とされて視界は目まぐるしく変わった。
 意識を持ったまま、緑の絨毯に落ちる。
 何よりもまず夏侯淵の傷の容態を案じた栞喃は、周囲の様子を詳しく調べるより早く彼の背中を見た。

 しかし、矢が突き刺さって負傷した痕跡はあるけれど、矢も無ければ傷も綺麗に消えていた。

 安堵した彼女はほうと吐息を漏らした。
 それからそこで、ようやっと現状を考えるに至る。

 夏侯淵の隣に座り込み、片手で顔を覆った。

 ……嗚呼、谷を追い出されたのだ、自分は。

 人間を匿ったから、人間を庇ったから、……人間を、好きになったから。
 肺の中の空気を全て吐き出すように深々と嘆息した。

 父のことだ、もう自分は狗族の谷には戻れないだろう。戻ったとしても、きっと父は自分を殺す。厳格な人だ。長として、例外は一切認めないだろう。

 これから自分はどうすれば良い?
 狗族でありながら、狗族が蔑む人間と関わりを持った為に追放された狗族でいて良いのかも分からない。

 突然のことで頭が上手く整理出来ずに、栞喃は途方に暮れた。
 何もかもが急過ぎたのだ。覚悟は出来ていたのに、頭は追いつけなかった。
 ぐるぐると巡っては結論が出せない己の思考に舌打ちする。

 ……ただ。
 栞喃の中で一番はっきりしているのは。


 自分はもう狗族であってはならないのだということだけだ。



‡‡‡




 血の臭いが鼻腔を突く。
 夏侯淵は目を覚まして起き上がるなり鼻を押さえた。
 臭いはかなり濃い。近くで誰かが怪我をしたのか。

 ……いや、自分だ。
 自分は栞乂の矢に射抜かれたのだ。

 刺された箇所を触り、ぎょっとする。


 矢が、無い?


 それだけではなかった。
 怪我すら消えているのだ。
 咄嗟に脳裏に思い浮かんだのはあの額から血を流す少年と、絹楠の姿。

 彼らの仕業と考えれば得心も行く。

 では、これは誰の血の臭いだ?
 重い首を巡らせ、目を瞠った。

 人が独り程座れそうな岩がそこにある。
 だが、それにはべったりと血が降りかかっていた。
 そして、その左には。


 こちらに背を向け頭から肩を赤黒く染めた栞喃が。


 彼女の右の耳が失われていた。
 そこから、脈動に合わせて鮮血が吹き出しては流れ、毛先から落ちていく。
 その光景に戦いた夏侯淵は慌てて、もう片方の耳ももぎ取ろうとする栞喃の腕を掴んだ。


「……っ、栞喃!!」

「うぐ……っ」


 彼女の膝に、右の耳が置いてある。
 まともに患部を見れなかった夏侯淵は栞喃の前に回り込んで彼女の双肩を掴み、がくがくと揺らした。


「何をしているんだ、お前は!!」


 栞喃は唇を真一文字に引き結んでいる。顔にも、幾筋も血が伝っていた。
 頑なに閉ざされた口に舌打ちして、夏侯淵は己の袖を裂いた。患部に添え、圧迫する。栞喃が呻いても、圧力をかけることを止めなかった。

 どれ程に大量の血が流れたのか分からない。
 一刻も早く彼女を医者に診せなければならいが、人間の医者は栞喃の傷を診てくれるだろうか?

――――否。

 狗族の傷を、人間は診てくれないだろう。それどころか、死んでしまえと罵られて追い出されてしまうかもしれない。

 かといって夏侯淵に医学の知識は無い。生半可な処置で栞喃の命を危険に晒したくはなかった。


「……やむを得ない、か」


 医者を脅してでも、診てもらうしか――――。


「そこに誰かいるのか?」

「!!」


 心臓が跳ね上がった。
 咄嗟に栞喃を背に庇って声のした方へ向き直る。

 がさがさと茂みが揺れ――――男が現れた。

 その人物は、夏侯淵もよく知る人物で。
 夏侯淵の顎が落ちた。


「な――――」

「ん? ……お前、夏侯淵か!」


 猫の耳を生やしたその男――――猫族の張世平は目を丸くした。


「どうしてお前がここに……いや、その前に死んだんじゃなかったのか?」


 問いかけた彼は、側の岩の血に気が付くと眉根を寄せ、更に夏侯淵の後ろに座る栞喃を見て色を失った。


「その娘……! 怪我をしているのかっ?」


 血の量から重傷だと察した世平は、栞喃を庇う夏侯淵の前に屈み込んだ。夏侯淵を挟んで怪我の様子を見ようと患部を押さえる布に手を伸ばす。

 けれどもその手が布に触れる前に、夏侯淵ががばっとその場に手を付いて頭を下げたのだ。


「な、」

「頼む、こいつを助けてくれ!!」


 栞喃の手当を急がなければ。
 そのことばかりで頭が一杯だった彼は、世平――――否、猫族にどれだけ辛辣に当たってきたかも忘れ、彼女を助ける為だけに額を地面にすり付けた。

 世平が、面食らっていたのはほんの一瞬だけだ。
 すぐに表情を引き締めて立ち上がった。


「こっちだ。この血の量だ、なるべく急げ」

「……っ、分かった!!」


 栞喃を振り返って腕を掴んだその直後、勢い良く振り払われる。

 まさか拒絶をされるとは思っていなかった。
 えっとなって栞喃の顔を覗き込めば、血に混じって透明な水がこぼれていた。

 泣いている。

 夏侯淵は奥歯を噛み締めて栞喃を抱き上げた。先程とは違い、嫌がりはしなかった。激痛で、もうそれどころではないのかもしれない。


「夏侯淵!」

「今行く!!」



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