参拾漆


※注意



 栞乂は波紋を広げる滝壺を見下ろしていた。
 波に乗って氷の破片がゆらゆらとゆらめくそこに、人影が覗くことは無い。もう、二度と。


「栞乂さん! ちょっと、何であんな――――」

「帰れ」


 蘭煕の抗議は切り捨てた。
 重厚な声で、逆らうことを許さずに命じる。

 蘭煕はさっと青ざめた。けれども、唇を噛み締めて彼をきっと睨む。
 そこにありありと浮かんだ軽蔑と怒りに、笑いがこみ上げそうになった。

 栞乂自身とて、これはほぼ衝動に近かった。

 だが、近頃の栞喃を見ていてずっと考えていたことでもある。

 絹楠は栞乂を深く愛した。それはよく分かっている。だからこそ、自分も根負けして妻として迎えたのだ。
 されども、彼女が人間の世界に未練があったことも、自分よりも愛している男が人間の世界にいることを栞乂はよく分かっていた。
 血は争えない。
 栞喃もそうなのだった。
 よりにもよって人間に恋をし、谷の外に出て人間の暮らし振りを知った。
 未練を持たない筈がない。

 これは、始祖の所為でも、絹楠の所為でもない。
 己の責任だ。
 最初から、あの人間を殺しておけば良かった。絹楠の血を引く栞喃が、絹楠に外の世界について聞いていたのだと知っていたではないか。
 今更後悔しても遅いことではあるが、もし娘があの人間と長く接触しなければと、考えてしまう。

 と、真っ白な吐息を漏らすと同時に背後に着地する。気配で分かる。那崑だ。


「皆は、もう村に帰れ。儂は、もう少しこの辺りを見ていく」

「分かった。――――《長》にしては、随分と甘い処罰じゃないか」


 少し、安心したぞ。
 那崑はそう言って、呆けたように立ち竦む息子の頭を殴ると耳を掴んで強引に引きずっていった。勿論那鐘は抗議をするけれど、それを彼は許す筈もない。即座に黙らせた。

 蘭煕も、栞乂と共に来ていた夫に名を呼ばれて、滝壺を何度も振り返りながら彼のもとへと。

 栞乂を責めるような視線は、背中を向けていてもひしひしと感じられた。
 蘭煕達にとっては納得がいかないだろう。
 けれど、人間の世界に未練を持った栞喃がこの村で過ごすその様はとても見ていられない。絹楠もそうだったが、上手く隠しているつもりで全く隠せていないのだ。未練も、余所の男への愛情も。

 狗族達が立ち去った後も、栞乂はずっと滝壺を見下ろしていた。

 そこに寄り添うのは、絹楠である。
 絹楠は、狗族の男達には見えていなかった。この滝へ来る直前に、そのように自らが狡に頼んだのだ。


「栞乂」

「お前は、内心満足しているのだろうな。己の娘を、お前が最も愛した男と同じ世界に住ませることが出来たのだから」


 栞乂は、絹楠を深く愛している。
 それ故に、彼女の《嘘》も見透かしていた。
 そしてそれを怒ることも無い。

 絹楠は眦を下げて栞乂に謝罪した。


「だけど、私が本当に望んだことはあなたの言うこととは違う。追い出すことまでは望まなかったわ。いつかあの人の子孫と栞喃が会えたら……そんな形も無いことを思っただけ。……正直を言えば、二つの世界を行き来出来れば良いかなって、思ってもいたけれど……」


 栞乂はそっと腕に触れた妻の手を払おうとはしない。
 よしや、今遠い昔に別れた男の面影を思い出していようとも。

 栞乂は絹楠を愛している。
 だからこそ、彼女を怒る気にはなれなかった。


「狗族の長として、お前の望みは聞けん。狗族の谷を人間に荒らしては狗族の誇りが汚れてしまう。あれのしたことは、狗族の誇りに泥を塗る行為だ」

「狗族の誇りを守る為という建て前で、無理矢理に栞喃を夏侯淵に押しつけて切り捨てたの? ……本当に、不器用ね」


 不器用で、とても寛容な人。
 人間と子を設けた私を、妻にしたくせに。
 汚れた身体であっても愛してくれたくせに。

 狗族の誇りだとか、そんなこと、最初から大事だとは思っていなかったくせに。


「私があなたを愛したのは本当よ。でも、あなたを傷つけていた。あなたは私以上に私のことをよく分かってくれたから、苦しんでいることにも気付かずに、甘えていたわ」

「謝罪は要らん。もう過ぎたことだ」


 苦しくなかったと言えば嘘になる。
 悔しくなかったと言えば嘘になる。
 けれども激情に身を任せたとてどうすることも出来まい。
 遠い昔に、諦めている。


「死人は早く消えるが良い。この谷の生き物たり得ぬ者達に呑まれる前に」

「……」


 絹楠に背中を向け、栞乂は耳に手をやった。根本を掴む。


「栞乂? 何を――――」


 力を込めて引き千切った。
 ぶちっと言う嫌な音と共に痛みが走った。
 栞乂は顔を歪めることも無くもう片方も千切り取った。

 そしてそれを、まるでゴミを捨てるかのように放り投げるのだ。

 更には尻尾まで斬ろうとする。

 絹楠は驚愕し慌てて止めた。


「ちょ……っと! 栞乂、あなた何を考えているの!?」

「長としての責任に決まっている」

「責任って……!」


 栞喃は谷から人間と共に追い出した。
 ならばもう、彼女の父でいる理由は無い。
 これよりは狗族の長として生きていく。
――――これらの罪と共に。

 血が幾筋も流れて顔を汚していく。

 栞乂は再び滝壺を見下ろした。
 何かを言おうとして口を開き、すぐに閉じた。
 ……また、開く。


「……全ては、儂の甘さが招いたこと。誰にも非は無いのだ」

「……っ」


 妻の頭を撫で、手を剥がす。
 そうして今度こそ、尻尾を切り落とすのだ。

 栞乂は自らに責任の全てを集め、どうでも良かった狗族の誇りを完全に切り捨てることで己を罰した。


「栞乂……」

「お前が謝る必要など無い」


 彼はそこでくるりときびすを返した。
 絹楠の脇を通り過ぎ、


「お前は何も気にしなくて良い。ただ、お前が最も愛した男と共に安らかに眠れ」


 栞喃の代わりに償わねば、儂は死ねぬ故。


 栞乂は寛大で、不器用で、何とも哀れな男だ。



 絹楠は無言で栞乂の背中を見送り、そっと拱手(きょうしゅ)した。

 ……あなたが栞喃の責を負うことで、万が一にでも彼女が戻ってきた時、あの子が責められることを無くすなんて。
 何処まで損を被ったら気が済むの。



.

- 39 -


[*前] | [次#]

ページ:39/43

しおり