参拾陸
栞喃は舌打ちした。
まさか、こんな時に見つかるなんて!
栞喃は栞乂を睨め上げ、その隣に絹楠の姿を認めて瞠目した。
動向見張っとくんじゃなかったのかい!
絹楠を睨むと、彼女は片手を立てて頭を下げた。本当に悪いと思っているとは思えない軽い態度である。
思わず足を一歩前に踏み出すと、栞乂の後ろに控えた中肉中背の男が矢を放った。
栞喃の頬を薄く裂いて通過する。
矢を番えた栞乂の代わりに矢を放ったのは那崑――――那鐘の父親だ。年と共に重ねた威厳が、栞乂の存在感を助長する。
この二人、幼い頃からの親友である。もし二人で襲いかかられたら、瞬殺される。逃げ切ることも出来ない。
栞喃は奥歯を噛み締めた。
こんなところで夏侯淵を殺させるものか!
何とか、何とかしてこの場を切り抜けなければならない。
栞喃は頭を回転させた。
だが、栞喃が幾ら考えようと、栞乂に敵う筈もないとは言わずもがなである。
どうにかして、夏侯淵だけでも谷の外に――――。
そこで、栞乂は驚くべき行動を取った。
「え……」
矢を向けたのだ。
――――自分の娘に。
栞喃は鈍器に殴られたような衝撃を得た。
どうして……疑問が頭を埋め尽くす。
栞乂の殺気は本物だ。威嚇でも、はったりの類でもない。
本気で、栞喃を殺すつもりであった。
「な、んで……」
「これが、お前の報いだ。これ以上その人間を庇い立てするというのなら、お前は罪人とし、ここで人間と共に始末する」
那崑がちらりと栞乂を一瞥する。
栞乂は厳ついかんばせには何も浮かべず、ただ狗族の長として娘を排除する意思を示した。
栞喃は、思わず短剣を取り落とした。
……分かっていたではないか。
こうなるかもしれないという可能性は、微かながらに頭の中にあったじゃないか。
それでも――――いざ現実になってしまうと足が竦(すく)んでしまう。
「親父様、」
「……」
栞乂は無言で弓を引いた。
無情の矢が、放たれた。
‡‡‡
一瞬だけ呆けた。
栞喃を覆い被さるのは夏侯淵。
その背には矢が刺さっている。
庇われたのだと理解するのに時間がかかった。
そっと背中に手をやると、夏侯淵が呻いた。
「夏侯、淵……」
「栞乂さん!」
蘭煕が非難するように呼ぶけれど、彼の眼光に怯んでしまう。
夏侯淵がずるりと落ちた。呻きながら起き上がろうと手に力を込めては激痛に倒れ込んでしまう。
背に突き刺さる矢を引き抜こうとして、寸前で止めた。抜いてしまえば血が溢れ出す。血を流すことの方が、危険だ。失念していた自分にぞっとした。
夏侯淵を蘭煕に託し、栞喃は取り落とした短剣を拾い上げた。
しっかりと立って腰を低くする。
「那鐘、蘭煕。夏侯淵を連れて逃げられるかい?」
「逃げるって……まさか栞喃!」
「取り敢えず、足止めをしてみる。一旦離れて別の方法で――――」
直後。
背後に巨体が落ちた。
振り返ろうとする暇すら無く、脇腹に衝撃。
視界が急速に横へ動いた。
それが地面を転がり止まったかと思えば全身に激痛が走った。
呻いて身体を折れば、父の低い声が聞こえた。
「栞喃。お前は族長の一人娘だ。それ故に、お前のしたことは決して許されることではない」
今まで夏侯淵を見逃してきたのは、《父》の譲歩だ。
この時の彼は《狗族長》として、もう妥協も譲歩もしない。
栞乂の、何かを抑圧するような声に堅く瞑った目を開くと、彼は夏侯淵の頭を掴んで持ち上げていた。
そのまま頭を圧壊(あっかい)することも出来る。
そのまま冷たく氷の張った滝壺に投げ捨てることも出来る。
彼には、夏侯淵を殺すことなど容易い。
「……っ」
「止めて!! 止めて下さい、栞乂さん!」
その人は栞喃の大事な人なんです!
蘭煕が栞乂の腕に縋りつくが、取り合ってもらえない。
那鐘はこの状況に戸惑うばかりで何も出来ない。
母は、無表情だ。夏侯淵をじっと見下ろして何も言わない。
助けなければ。
夏侯淵を。
あいつをここで死なせたら駄目だ。
だってここはあいつの故郷じゃない。
ここで死んでしまったら二度と《兄者》に会えなくなってしまうじゃないか。
折角一度帰れたのに。
戻ってくるなんて、馬鹿だろう。
その馬鹿の所為であたし殺されるのか。
……。
……。
嗚呼、何かもうどうでも良いや。
栞喃は痛みに呻きながらよろよろと立ち上がった。
ふらふらとまろびつつも何とか体勢を整えると、そのまま両足を殴って駆け出した。
渾身の力で栞乂に身体をぶつけた。
けれどもやはり父はびくともしなくて。
彼は栞喃の頭も掴むと夏侯淵と共に――――滝壺へ放り投げた。
嗚呼、死ぬ。
その時、栞喃は父の言葉を聞いた。
「やはりお前は絹楠の娘だ」
達者で暮らせ。
――――ばしゃん。
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