参拾伍





 一瞬何が起こったのか分からなかった。
 視界が急激に動いたのかと思えば身体が温もりに包まれていた。

 少し遅れて己が夏侯淵に抱き締められていることを知る。

 分かった途端、恥ずかしくなった。
 全身が熱くなって心臓が逸(はや)る。まるで耳元にあるかのように鼓動が五月蠅く、速かった。
 どうして、こんなことになっているのだろう。
 どうして、どうして、どうして。

 こういうことを、するんだ。

 ……止めてくれ。
 これ以上何もするな。何も、何もしないでくれ。

 こんなことをされたら――――。


「かこう、えん……」


 漏れた言葉のなんと幼いことか。

 栞喃はキツく抱き締める夏侯淵の腕を掴みながら、自身の中で膨れ上がっていくモノを感じていた。
 そうして、辟易して嫌になる。

 出口を探して蠢(うごめ)くその感情を、理性が閉じこめようとする。
 無駄だ――――誰かが頭の片隅で呟いた。
 もう抑え込むことなど出来る訳がないと栞喃の理性を嘲笑う。

 ……けれども、本当に駄目なんだ。
 だって、種族が違うじゃないか。世界が違うじゃないか。どうして一緒になれようか。
 最初から叶わないことが決まっているのならば、この感情こそが無駄じゃないか。

 消えてしまえ。こんな、感情。

 温もりに安堵を覚えつつも、栞喃は夏侯淵の腕を剥がそうと力を込めた。

 が、夏侯淵は一体どうしたと言うのか、一向に栞喃を放してくれない。それどころか腕の力を強めてくるのだ。


「ちょ、夏侯淵……っ? ホントに、放――――」

「好きだ」


 ……。

 ……。


「――――は?」


 頓狂な声が出た。

 今、こいつ何て言った?
 いや有り得ない。
 そんなの有り得ない。
 そんな筈がないじゃないか。
 それにそんなの駄目だ。

 返答に困っていると、夏侯淵はようやっと栞喃を放した。


「……悪い。言っておきたかっただけだ」


 静かで低い声音で彼は言い、立ち上がる。


「オレは、ここに長い出来ないんだよな。迷惑をかけていてしまって本当にすまない」


 今のは忘れてくれ。
 彼の言葉は、やけに胸に響いた。



‡‡‡




 夏侯淵は歩きながら、自分のしたことを思い返していた。


『後悔すると分かってるなら、ちゃんと男見せて来なさい』


 栞喃を追いかける前に、絹楠に耳打ちされた言葉が蘇る。
 栞喃が自分から起き上がった時、鼻孔を擽ったのは絹楠とは微妙に違う彼女の匂いだった。それに頭の中が痺れたような感覚に襲われて気付けば彼女の身体を抱き寄せていた。

 言うつもりなどなかったというのに、何故か口を突いて出たあの三文字。沈黙が気まずくてあんなことを言ってしまったけれど、あの黙(だんま)りが拒絶の意思に思えて怖かった。
 言いたかっただけ、忘れてくれ、などと。完全に逃げだ。

 漏れた吐息は白く染まる。
 今更悔いても仕方がないのだけれど、言わずにおいてそのまま別れたかった。

 ちらりと背後を肩越しに振り返れば栞喃は俯き加減について来ている。その顔は、未だ赤い。
 ……言うんじゃなかった。
 鉛が落ちたように胸が重かった。

 そんな沈んだ気分のまま蘭煕達のもとに戻ると、そこに絹楠の姿は無く。


「あ、お帰り二人共。狗族の皆には見つからなかった?」

「絹楠は?」

「栞乂さんのところに行っちゃった。そろそろ狗族の動向を見張っておかないと、だって」

「そうか……」


 なら、出口を目指そうか。
 栞喃を振り返れば、ふいっと顔を逸らされた。けれどももう顔は赤くはない。調子も元に戻ったようだ。


「こっちだよ」


 彼女は夏侯淵を見ずに、大股に歩き出した。
 夏侯淵はそれに胸を痛めながら、頷いて彼女に従った。

 二人の様子を怪訝に思った蘭煕は、那鐘を見やる。

 が、那鐘にも分かる筈がない。ぐにゃりと顔を歪めて夏侯淵を睨んだ。



‡‡‡




 あの滝は凍っていた。
 何本もの鋭い氷柱(つらら)が下がり、夏侯淵達を冷たく拒絶する。
 しかし、その存在感だけは、全く変わっていなかった。

 栞喃は氷の滝を見上げ、舌打ち。


「凍ってるんじゃあ、洞窟に入れないね。ダメ元で何処か、別の道を探してみよう」

「栞喃、そんなものあるのか? 親父達の話じゃ一つだけなんだろう?」


 那鐘の言葉に、栞喃は唸る。
 狗族は谷から出ない。故に出入り口のことを考える必要も無い。だからあの洞窟に繋がる道だって、可能性は低いだろう。
 だからと言ってこの分厚い氷をすぐに破壊出来る訳もない。栞喃では無理だろうし、那鐘もあてにならない。


「探すしか無いんだ。別の道を」


 夏侯淵が狗族にバレる前に。
 意気込んで滝へ一歩踏み出した直後だ。


 栞喃の足先に一本の矢が突き刺さった!


「なっ!」


 見つかった!?
 咄嗟に夏侯淵の前に立って矢が飛来した方向を睨めつけた彼女は――――すぐに目を瞠った。


「親父様……!」


 そこには弓を手にした父がいた。夏侯淵を冷たく見下ろしながら唇を真一文字に引き結び、更なる矢を番(つが)える。

 ……その後ろには。



 狗族の男達がいる。



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