参拾肆





 どうして逃げたのだろうか。
 あれでは嫉妬を肯定したようなものだ。

 嫉妬ではない。
 あれは、ただ栞乂という最愛の夫がいながら別の男に不必要に密着する母親が気に食わなかっただけだ。断じて嫉妬なんかじゃない。
 この感情が駄目だと分かっているのだから、どうして嫉妬なんか出来ようか。
 栞喃は立ち止まって木に寄りかかった。
 髪を掻き上げて長々と吐息を漏らした。


「違うんだ、本当に……あれは、」


 母さんの言う通りなんかじゃない。
 嫉妬なんか、していない!
 両の頬を叩いて気持ちを切り替える。

 ……が、


「栞喃!」

「……何か来たし……!!」


 栞喃はがくっと肩を落とした。

 追いかけてきたらしい夏侯淵は栞喃の前に立つと顔を覗き込んできた。


「顔が赤いが、どうしたんだ?」

「別に何ともないよ。って言うか、何であんた一人で来てんの。人間が彷徨いて、見つかったらどうするんだい?」


 栞喃は腰に両手を当てて彼を見上げた。

 夏侯淵はうっとなりつつも、しどろもどろに絹楠が行けと促してきたのだと言い訳がましく言ってきた。

 それは、今の栞喃にとっては神経を逆撫でするものでしかなかった。
 舌打ちし、夏侯淵の背中をばしんと叩く。
 完全な八つ当たりだと分かってはいる。けれどもこうでもしなければ募っていきそうだ。

 強めに叩いたので、痛かったのだろう。夏侯淵は顔をしかめつつ栞喃を見やり、ふと怪訝そうに覗き込んできた。

 間近の顔に思わずたじろいだ。


「な、何さ。あたしの顔に何か付いてる?」

「お前……やけに機嫌、悪くないか?」

「悪くないよ」


 即座に答えたのは、むしろ不自然だった。
 それに気付いて一瞬だけ目を逸らしたのも良くなかった。
 夏侯淵がますます訝った。


「栞喃?」

「あ……あたしの機嫌はどうでも良いじゃないか。そんなことより、人の母親誑(たら)し込まないどくれ」


 憮然と言い放つと、夏侯淵は顔を朱に染めた。慌てた風情で言い繕ってきた。


「あれは違う! オレは誑し込んでない。絹楠が勝手にくっついてきて……というか、あいつは栞乂殿一筋だろ。ここに来る時だって鼻血を流していたんだぞ」

「どうだか。顔赤くしてたじゃん」

「あ、あれは……」


 何かを言い掛けて口ごもる。
 言いにくそうに栞喃から目を逸らした。

 栞喃は目を細めた。口ごもるような感情があったということか。
 蔑視を向けた。


「……不埒(ふらち)」

「だっ……から、違うといっているだろ! あれは絹楠がお前にそっくりだからであって――――」


 そこで、夏侯淵は己の口を塞ぐ。徐々に顔が染まっていく。

 栞喃はえっとなって数回瞬きした。
 いや、どうしてそうなる。
 絹楠は栞喃の母親だ。似ているのは当たり前じゃないか。それと顔を赤くしていたことにどういう関係が?

 夏侯淵の言葉を反芻(はんすう)し、栞喃は首を傾げた。

――――けれども、暫くすれば彼の言っていた意味が分かってくる。
 目を丸くした。

 顔が爆発する。


「ちょ、なん……はっ!?」


 身体を仰け反らせて夏侯淵から距離を取った。


「あ、あんた、なん……っ!」


 夏侯淵は顔を片手で覆い、半ば自棄のように叫ぶ。


「五月蠅い!! 悪いか!」

「ぎ、逆ギレしてんじゃないよ!」


 ……恥ずかしい。
 物凄く恥ずかしい!
 何なのこいつ!
 心の中で叫んだ。

 けれども、心の底では安堵する自分に、ほとほと呆れる。抑え込もうとしているのに、これだもの。

 夏侯淵は木に寄りかかって大仰に息を吐き出した。
 それから何を思ったか、


「抱きついた絹楠が、お前に見えたんだ」


 なんて、言う。
 言わなくても良いのに言う。言わないで欲しいのに言う。

 栞喃は思わず夏侯淵を殴った。拳で。
 ごつっと音がしたので背中よりもずっと痛かったと思う。でも今のは仕方がない。


「栞喃、お前、いきなり……!!」

「五月蠅い変なことを何度も言ったあんたが悪いあたしは何も悪くない!!」


 何で、こいつはこうも……!
 一息に、捲し立てるように言い放った栞喃はこめかみを押さえてふらりとよろめいた。
 どうして人の感情を増幅させるようなことを言うのだろう。


「人が折角、我慢しようとしているってのにさ……」

「我慢?」


 はっと口を噤んで、誤魔化す。
 声に出ていたようだ。幸い、全部ではなかったらしい。
 安堵しつつ、栞喃は歩き出した。


「ほら、早く戻ろう。蘭煕達を待たせる訳にもいかないし、あんただってここを出なくちゃいけないんだ。悠長にはしてられない」


 ……自分がここまで逃げてきて時間を無駄にしているのだけれど。
 心中で漏らし、栞喃は後頭部を掻きながら、夏侯淵を促した。

 されど――――不意に足を止めるのだ。
 暫し周囲を見渡し耳をそばだてた彼女ははっと顔を強張らせた。

 何事かと問おうとした夏侯淵に駆け寄って近くの茂みに押し倒す。

 生き物の気配がしたのだった。狗族かもしれないし、餌を探しに来た獣かもしれない。

 栞喃の唐突な行動に咄嗟に抗議しようとした彼はしかし、彼女の緊迫した表情にはっと息を殺した。なるべく茂みから身体が出ないように手足を動かしてくれた。

 それから暫く。がさがさと近くの茂みが揺れる。
 枝葉の合間から、鹿の足を確認した途端全身から力が抜けた。


「鹿か……」

「これで狗族だったら確実にあんたの匂いバレてたかも……」


 脱力して、栞喃ははっと身を起こした。顔を真っ赤にして早口に謝罪する。

 夏侯淵はそれに応(いら)えを返さなかった。目を軽く目を瞠って鼻を覆っている。


「夏侯淵? 鼻がどうかし――――」

「――――絹楠とは、違う」


 呟いた後、彼は栞喃の身体を強引に抱き寄せた。


 息が、止まる。



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