参拾参





「へっくしゅ!」


 蘭煕のくしゃみが空気を震わせた。

 それを不機嫌そうに那鐘が睨みつけた。
 彼は弓矢も刃物も蘭煕に没収された。おまけに首に縄を括り付けられて夏侯淵に襲いかかる節があれば即座に締め上げられた。蘭煕が縄を何処から持ってきたのかは、彼女のみぞ知ることである。

 栞喃は片手で顔を覆い、長々と吐息を漏らした。
 夏侯淵一人を谷の外へ出せば良いだけというのに、どうしてこうも上手く行かないのか……。
 早くしなければならない。見つかってからでは遅いのだ。

 焦る彼女の心痛とは裏腹に、夏侯淵は那鐘を呼ぶ。


「お前は弓が苦手なのか?」

「うぐ……」


 那鐘は言葉を詰まらせて悔しそうに夏侯淵を睨めつける。

 代わりに蘭煕が口を挟む。


「そうなのよ。彫刻は誰よりも上手いのに、狩りではまだ一体もしとめたことが無いの」

「う、五月蠅い!! 人間なんかに言うなよ!」

「だって事実じゃない」

「だからこそだろ!?」


 踏ん張ってくれずに冷たい雪の中に倒れ込むことになってしまったのをまだ根に持っているのか、蘭煕はぷいっとそっぽを向いて唇を尖らせた。これで、夏侯淵よりも年上で一児の母だ。

 夏侯淵は苦笑し、那鐘に視線を戻した。思案し、蘭煕に那鐘の弓矢を貸してもらう。


「お前は、構えが悪い。姿勢が上手く安定出来ていないから照準が合わないんだ」

「な、何でそれをお前に――――」

「これを機に教えてもらいなよ。夏侯淵の弓、うちのもんよりも上だと思うよ」

「栞喃!?」


 栞喃が半ば投げ槍に言うと、蘭煕がぐにゃりと顔をしかめた。すっくと立ち上がって栞喃の腕を掴む。


「蘭煕?」

「ちょっと、周囲の様子を見てこよう!」

「へ? いや、さっき確認したばかりで……」

「良いから来る!」


 腕を強く引いてその場を離れようとする幼なじみに栞喃は怪訝に眉根を寄せた。
 大人しく従うと、蘭煕は近くを流れる小川まで栞喃を連れていった。

 手頃な岩に座らせて、自身は栞喃の前に腕組みして仁王立ちする。眦をつり上げているが、元が可愛らしい面立ちなのでさして迫力は無い。

 栞喃は頬を人差し指で掻いた。


「ええと……何?」

「告白しないの?」

「は?」

「だから、夏侯淵さんに告白しないのっ?」


 栞喃は自分の頬に熱が集中するのが分かった。
 けれども必死に平静を取り繕った。動揺すれば襤褸(ぼろ)が出そうだった。


「しないよ。だって種族が違うもの」

「でも告白すれば区切りがつくじゃない。そのまま押し込めたら、膨れ上がるばかりだと思う」


 蘭煕は恋愛の経験者だ。恋心が如何なるものか、栞喃よりもよく知っているだろう。だからこそ、こうして親身に言ってくれるのだと思う。
 けれども、栞喃は彼女に諭されたって言うつもりは全くなかった。
 このままで良い。
 どうせ別れるのなら、この気持ちを夏侯淵に押しつけることも無い。何事も無く綺麗に別れた方が双方の為となる。

 栞喃は蘭煕に笑って見せた。

 心から自分達のことを思ってくれている蘭煕が顔を歪めるのに、心が痛む。


「あたしは、言わないよ。もう二度と会わないんだから言う必要が無い」


 それで良いのだ。
 栞喃は腰を上げて蘭煕の手を握った。


「ほら、周囲の様子を見に行くんだろ? それに、あたしらがいない方が那鐘も夏侯淵の話を素直に聞けるだろうよ」

「栞喃……」


 変なの。
 蘭煕が泣きそうになることなんて無いのに。
 栞喃は彼女の頭を撫でて、苦笑した。



‡‡‡




――――これは、何だ。
 栞喃は口角をひきつらせた。

 栞喃の後ろでは蘭煕がわたわたと両手を振ったりして挙動不審。

 これは……自分にどうしろと言うのだろうか。


「あ、お帰り栞喃」

「良いから退け!!」


 夏侯淵が押し倒されている。
 絹楠に。

 喜色満面の笑みで栞喃を見上げる彼女は、栞喃が良く知る母親そのもので。

 驚くよりも、胸に蟠(わだかま)る黒いモノに思わず顔をしかめた。

 絹楠は夏侯淵から離れると、手を貸す。
 彼がそれを手に取って立ち上がれば今度は抱きついた。

 夏侯淵は顔を真っ赤にして絹楠を引き剥がそうとする。

 ……嫌だ。
 それは完全に無意識だった。
 我に返った時には夏侯淵と絹楠を離していて。

 夏侯淵が驚いたようにこちらを見下ろしているのに気まずくなって視線を地面に落とした。
 何やってんだ、あたし!

 慌てて離れようとするけれど、その前に絹楠がにやにやしながら思わぬ言葉を口にした。


「今の嫉妬でしょ」

「な――――!」


 栞喃はぎょっと母を見た。
 面白がる絹楠を見て、頭に血が上る。けれど言葉が上手く声に乗らない。意味の無い母音を発するばっかりだ。

 やがて、


「ちが、あ、たしはただ……! 母さんには親父様がいるから……」

「そんな嘘、恋多き私に効くと思ってる?」

「……!!」


 揶揄するような響きを含んだ声に栞喃は奥歯を噛み締めた。
 手を振り上げて、相手が母親だと言うことを思い出してすぐに下げる。

 やり場の無い激情は何処に当てれば良いのか。


「くそったれ……!!」


 栞喃は吐き捨て、その場から逃げ出した。

 自身を呼ぶ夏侯淵の声がして、それもまた胸を抉る――――。



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