参拾弐
栞喃は、存外早くに戻ってきた。
「ほら、これを来ておきな」
手渡された毛皮を羽織る。
この毛皮、熊なのかかなり大きい。まさか栞乂の物ではなかろうか。
それを問えば、去年栞喃が狩って剥いだ物だと言う。彼女自身、寝る時に身体にかけているのを聞いて思わず返そうとした。
だが、その前に「凍え死んだら放置するからね」キツく言われて阻まれてしまった。
「んじゃあ、早いところ谷を出て行きな。場所は分かるだろう?」
夏侯淵は頷いた。胸に、一抹(いちまつ)の寂寥(せきりょう)が生まれる。
嗚呼、駄目だ。こんな感情を抱いてはいけない。消さなければならないのだ。
だって、種族が違う。世界が違う。
人間と狗族の間には、分厚い時の壁がある。
夏侯淵のちっぽけな手では壊すことも越えることも出来ない。
無事を確認出来ただけで良しとするべきだ。
自身に言い聞かせ、夏侯淵は歩き出す。
蘭煕は泣きそうな顔をして、ふと声を張り上げた。
「あ、あの! 夏侯淵さん!! ちょっと話があるの!」
夏侯淵が立ち止まると彼女は小走りに近寄って、腕を掴み栞喃から離れた場所まで連れて行く。
それから、声を潜めて、
「あのね、私やっぱり思うのよ」
「……?」
「そんな辛そうにするくらいなら、やっぱり言っちゃった方が良いわ。気持ちを伝えるだけでも、けじめになると思うの。あなたの為にも、栞喃の為にも、今だけ正直になった方が後悔しないと思うわ」
本当に好きなんでしょう?
ぽん、と頭を撫でる蘭煕は先程までとは打って変わって柔和な――――母親のような顔をしていた。この表情を見ていると彼女が年上であることも頷ける。
しかし、そんなことはどうでも良くて。
夏侯淵は渋面を作った。
蘭煕も自分のことを考えて言ってくれたのだろう。彼女の言ったことも分からないではない。でも、言いたくはない。
このまま何事も無く別れた方が互いの為に良いと、彼は思うから。
「……すまない」
それだけ言って、夏侯淵はきびすを返した。
今度は誰も、呼び止めなかった。
夏侯淵の後ろには栞喃が続いた。蘭煕には彼女が村に戻るように言った。
洞窟を出ると、風が夏侯淵の髪を踊らせる。……冷たい。
毛皮を羽織るだけでも随分と違った。
白い息を吐き出して夏侯淵は歩き出した。ここからどう行けば良いかは、まだ覚えている。季節によって景色が変わってしまっているので少々不安はあるが。
ぎゅ、ぎゅ、と雪を踏み締めて歩く。
夏侯淵も栞喃も何も言わない。ただただ無言で歩く。
‡‡‡
これ以上一緒にいたら駄目だ。
逸る鼓動を押さえつけ、溢れ出そうになる感情に蓋をして。
栞喃は無表情を張り付けて夏侯淵の背中を睨むように見据えた。
元気そうな姿を見れただけでも十分だ。
もう栞喃が構う必要も無い。案ずる必要も然り。
痛む胸は、気の所為だ。
そうに決まってる。いいや、それが正しいのだ。
と、夏侯淵が道から逸れたので思考を中断して声をかけた。
「……そっちじゃない。そのまま直進」
「すまない」
「早くしないと、見つかっちまうだろう」
半分は嘘。
この季節洞窟の周辺には誰も訪れようとしない。この寒さと天候の不安定さから、遠出をしたがらないのだ。蘭煕は多分、ふらりと散歩でここまで来てしまった類(たぐい)だろう。
だから滅多に――――。
「栞喃!!」
――――狗族の姿を見る筈はないのだが。
栞喃はその声に額を手で覆った。
振り返ればそこには狼狽した風情の那鐘。矢を番(つが)えて夏侯淵を睨んでいる。
そして、放つ。
しかし、それは夏侯淵の足下に突き刺さるだけ。
沈黙。
「……相変わらず下手だね、あんた」
「う……じゃなくて! 栞喃、そいつ人間だろ!! 何で一緒にいるんだ!?」
「人間だから、谷の外に連れて行こうとしてるんじゃないか。あたしは、この谷を無駄な血で汚したくないんだ」
けんもほろろに言って夏侯淵の背中を押す。
那鐘はぎりっと歯軋りして再び矢をえた。
出て行くのだから良いじゃないか。
何が何でも殺そうとする那鐘に、栞喃は舌打ちした。
手荒な真似はしたくないけれど、彼が騒げば狗族の者達が動いてしまう。
夏侯淵が谷を出るまでで良い、それまで気絶してもらおう。そうしなければ、彼にまた危害が及ぶ。
短刀を懐から取り出せば那鐘はぎょっとし、傷ついた顔をした。狗族として判断を間違っていない自分よりも人間を取ったのが、余程嫌なのだろう。
栞喃は心の中で謝罪して、那鐘に躍り掛かった。
――――けれど。
「ちょっと待ったぁぁ!!」
突如左の茂みから蘭煕が飛び出して那鐘に突進したのである!
栞喃は呆気に取られて数歩手前で立ち止まった。
那鐘は突然の衝撃に対応が遅れた。二人共々雪の中に倒れ込む。直後雪の冷たさに蘭煕が悲鳴を上げた。
「冷たい! ちょっと那鐘! 男なんだからちゃんと踏ん張ってよ!」
「無茶言うな!! いきなり突進されて踏ん張れるか!! っていうか何でお前がここに!」
怒鳴り合う二人に、栞喃はどう対処して良いか迷う。
取り敢えず後頭部を掻いて、村に返した筈の蘭煕を呼んだ。
蘭煕はえへへとふにゃりと笑うと、悪びれた様子も無く。
「やっぱり二人が心配で追いかけて来ちゃった!」
「……」
拳骨が、一発。
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