参拾





「とにかく、ここは狗族の村に近い。あの洞窟に行こう」


 栞喃は素っ気なく言って歩き出した。何かを堪えているように唇を引き結んで、大股に雪を踏み締めていく。
 夏侯淵は彼女の背が自分を拒絶しているように思えた。声をかけようにも口が重くて開くことが出来なかった。

 二人の足が雪を押し潰す音と、その下の枝が折れる音だけが、沈黙を埋めてくれる。

 つい二ヶ月程前までは蒼々とした自然が、今や雪に覆われ、閑散としている。

 たった二ヶ月の間に、この谷はそんなにも時が進んでしまったなんて。
 栞喃はこの谷に戻ってきた時、この時の流れに何を思ったのだろうか。時の流れが違うことを察して兌州を出た彼女は、どんな心境だったのか。

 今、夏侯淵は時という分厚い壁に目の前を遮断されたように感じている。栞喃に話しかけられないのは、それもあるやも知れぬ。

 自分も狗族に生まれていればどんなに良かったかと思い、はっとした。
 そうなれば自分達は夏侯惇と共に過ごし、曹操に仕えることにはならなかった。今のような自分に育ったかどうかも分からない。

 栞喃に寄せた感情は、今なお確かな存在感を持って夏侯淵の中に在る。

 栞喃の無事は確かめられた。
 この後彼女に絹楠のことを話して――――自分はどうしよう。
 オレは……どうしたい?
 自問自答して眉根を寄せる。

 分からない。
 ここに来たのは、半分は勢いだ。栞喃の無事を確かめた後のことは全く考えていなかった。絹楠が現れることは勿論想定外であったし、時の流れが違うという大変な事実を知るとも思わなかった。

 栞喃との関係をこのままで終わらせる?
 それとも――――いや、それは関係を壊す選択肢だ。そんなもの選びたくない。絶対に。
 はあと唇の隙間から漏れた溜息は白く、徐々に冷えて消えていった。



‡‡‡




 洞窟の吹き抜けには、夏侯淵がいた痕跡は全く残っていなかった。栞喃が片付けてしまったのだそうだ。

 雪が降り積もったそこで栞喃と対峙した夏侯淵は、ようやっとここに来た次第を話した。なるべく細かに。

 栞喃は無表情のまま夏侯淵の話を黙って聞き続けた。
 けれども額から血を流した少年と、絹楠の話の時には眉間に皺が刻まれた。

 夏侯淵の話が終わるなり彼女は腕組みして思案した。
 眉根を寄せて夏侯淵を睨むように見据えた。


「……つまりは、あんたがここに来たのは、あの四つ足の化け物だって言う胡散臭い子供にあたしが処刑されるなんて出任せ吹き込まれたからだと。で、その道途で母さ……、絹楠っていう名前の狗族の女と会ったと。そんであんたの推測では、絹楠はあの四つ足の化け物――――狡が蘇らせた存在だと」


 栞喃はそこで目を半分に据わらせた。


「……頭大丈夫?」

「何でそうなる!!」


 思わず怒鳴り返してしまった。

 栞喃は耳を塞いで五月蠅いと主張してくる。

 しかし、夏侯淵は声を荒げたまま本当だと言い募る。夏侯淵だってそんな現実的でないことを信じられる筈がない。まして蘇りなど世の理に逆らっている。
 けれどもこの目で見てしまった以上、いやが上にも受け止めるしか無いではないか。しかも夏侯淵は絹楠に腕を掴まれて夫に興奮して垂らした鼻血を付けられた。それは今でも手首に残っている。

 それを言ってそこを示してみせると、栞喃は寸陰固まった後ふらりとこめかみを押さえてよろめいた。かと思えばその場に座り込み、


「……止めて。その話」

「もしかして、本当に違うのか?」

「それ確実に母さんだから信じそうになるんだよ」


 ……。
 重い重い声音に思わず肩を叩きそうになってしまった。


「栞乂殿と会った時もそうだったが、彼女の扱いはお前達でも難しいのか?」

「……切り替わったら大事な話の途中だろうが何だろうがあたしは逃げてた」

「……そうか」


 狗族の中で、絹楠の相手をまともに出来るのは誰かと問うてみると、間を置かず「親父様だけ」とこちらの予想を裏切らぬ返答。

 栞喃は立ち上がると髪を掻き上げて細く吐息を漏らした。


「あれが無かったら、尊敬出来る人なんだよ」

「……そうか」


 栞喃は頷いて見せ、腰に手を当てた。


「話を戻そう。あたしの無事を確認したんだったら、さっさとこの谷から出て行きな。うちの男共に見つかったら殺されちまう。那鐘は親父様に口止めされているだろうから、他の奴らに見つからないうちに早く――――」



「そこに誰かいるんですかー?」

「……」



 ……折が悪かったとしか言い様が無い。


 とてとてと吹き抜けに駆け込んできたのは、栞喃と同じ程の年の娘だ。


「蘭煕……」


 彼女を見た瞬間栞喃がさっと青ざめた。

 蘭煕と呼ばれた娘は夏侯淵を見てはっと息を呑むと、栞喃に駆け寄った。その腕をぎゅっと掴んで睨んできた。

 夏侯淵は下手なことが出来ず、取り敢えず怯えさせない為に深々と頭を下げた。


「耳が無い……に、人間?」

「蘭煕、こいつは……あ、ちょっと、」


 ふわり。
 鼻のような甘い匂いが鼻孔を擽った。
 視界に足が映り込む。栞喃の物ではない。なら、これは蘭煕の足なのか。

 怖ず怖ずと言った体で顔を上げれば、蘭煕が探るように夏侯淵を見下ろしている。背を伸ばせば、顔を見て何故かぎょっとする。
 何だ、と問う暇すら無かった。

 がばっと服を掴んで揺すられたのである。


「だ、だ、だ大丈夫ですか!?」

「は?」

「顔! 顔の横に……、び、病気なの!?」

「顔の横……?」


 ……何だろうか。
 物凄く嫌な予感がする。

 蘭煕は痛ましげに顔をしかめて夏侯淵を仰いだまま――――。


「顔の横から木耳(きくらげ)が生えてるじゃない!!」

「ぶふっ」

「……」


 気が遠退きかけた。



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