弐拾玖
今日は、不漁だ。
栞喃は魚籠(びく)を見下ろして溜息をついた。
何となく釣りにしたのだが、やはりこういうのに自分は向いていないようだ。まるで辛抱が出来ない。狩りとは違って、獲物が前で油断しているその様が見えないから、全く以てつまらない。
これじゃあ怒られちまうかなあ。
肩の下辺りまで伸びてきた髪を払い、白い息を吐き出した。
……《外》じゃ、まだ雪は降っていないだろう。
栞喃が戻ってきた時とまだ同じ流れであるなら、多分一月程だろうか。
勝手に帰ってきたから、夏侯淵は怒っているだろう。今はもう忘れてしまっているかもしれないが。
後頭部を掻いて、苦笑を浮かべた。
自分もこの数ヶ月で忘れられたらどんなに楽だっただろう。
今でも忘れられないばかりか、まだくっきりと顔が思い出せてしまうし、何かを考えていないとぱっと記憶が蘇る。
栞喃は己の尻尾を撫でた。
彼にまつわる記憶を思い出す度、彼に会いたいと、何処かで思っている自分がいるのだと思い知らされる。
いつの間に、こんなになってしまったのか……。
「そんなの、駄目に決まってるのにさ……」
困った自分の頭である。
栞喃は思考を振りきるように緩くかぶりを振ると、不意に後方に気配を感じた。
短剣を手にして振り返った。
ややあって、がさがさと茂みが鳴る。ぱきぱきと枝を折る音も聞こえた。
狗族の人間だろうが、少ない餌を探す獣かもしれない。
念の為にと腰を低くした栞喃はしかし、木の影から見えた姿に仰天した。顎を落とした。
「な……っ!!」
その人物は、彼女を見つけるなり走り出した。
固まっていたのは寸陰である。
栞喃は彼が自身の名前を呼んだ瞬間――――。
「ぬ、ぬあああぁぁぁぁぁぁぁ!!」
魚籠を投げつけてその場を逃げ出した。
‡‡‡
ちょっと、何だってあいつがいるのさ!?
混乱する思考の中、栞喃は闇雲に走った。
夢かとも思ったけれど、振り返れば夏侯淵はやはり、栞喃を追いかけていて。
雪の積もった山道はとかく走りにくい。いつもの速さが出ず、なかなか夏侯淵を振りきれないでいた。
早く忘れなければならないのに!
どうしてこの谷に戻ってきているのか。
のこのこ戻ってきたりしたら殺されるって、分かってるのか!?
必死の体で逃げる栞喃の名を、夏侯淵が何度も呼ぶ。
懐かしさに胸がじんと熱くなるけれど、今はそれに構っている余裕は無い。今はとにかく、夏侯淵を振りきらなければならない。
夏侯淵と言葉を交わしたら駄目だと――――頭の片隅で警鐘が鳴っている。
漠然と感じる、胸に渦巻くものは不安だ。
話をすれば、耐えてきた分が流れ出る。そんな気がする。
折角忘れようと必死に押し込めてきたというのに、こんなところで苦労を台無しにしてなるものか!
栞喃は体力の続く限り走り続けた。
――――けども。
目の前の岩影から何かが現れ横切った。
栞喃は足を止めた。
口をあんぐりと開けて走り抜けた影を見送った。
その後ろ姿、風に靡(なび)く艶やかな髪、自分と似て露出の多い服――――。
……どうして。
どうして……どうしてここに!?
「……母、さん……!?」
見間違えだろうか――――いいや、違う。
幾ら見なくなって久しいと言えども、見間違える訳がない。
自分を生んだたった一人の母親を!
「何、で――――何で、あの人が……!?」
彼女は小さな頃に死んだではないか。今でも、冷たい肌の硬さははっきりと覚えている。
どうして、どうして、どうして!
狼狽した栞喃は影を追いかけようとした。確認しなければ。
けれども、それを追いついた夏侯淵が腕を掴んで引き留めた。
「ちょ……放、」
「絹楠のことはオレから話す。……オレの推測になるが」
「何で、夏侯淵が母さんの名前を……」
「ここへは、彼女と一緒に来たんだ」
え? と夏侯淵を怪訝に見つめると、夏侯淵は息を整えながら「話がしたい」と。
栞喃は、暫く躊躇した。
それから……やおら頷くのである。
‡‡‡
「この世界は、じきに遮断されるわ」
絹楠は夫にそう言った。
曰く、始祖がこの谷と外を繋げておく理由が無くなったのだとか。
その話から、栞乂は始祖が栞喃と共に出た後に、猫族の《あれ》をどうにかしたのだと悟った。
別にそれは構わない。
構わないが、……だからと言ってあの人間を連れてくる理由になりはしない。
栞乂はキツく、今は亡き妻を睨んだ。
「絹楠、何故お前は人間を連れてきた」
「栞喃がまだ、忘れられないようだったから。今ここで、すっきりさせておくべきだと思ったの。私が人間の世界で暮らしていた時のように、ね」
そこで、彼女は悲しげな微笑みを浮かべて腹を撫でた。
彼女は栞乂の妻になった時、すでに生娘ではなかった。
それを栞乂は何も問わずにいたが、ふとした時、絹楠から直に人間との間で一人だけ子をもうけたことがあると告げたのだった。
初めて愛した男だからどうしても欲しかった子供だった。
種族が違うことが原因なのか、生まれた赤子は奇形児だったそうだ。生まれ落ちた直後に男の母親の手で殺され、自身は村を追い出された。
そんな過去を黙っていたことを彼女は謝罪した。
けれども栞乂はそれで彼女を軽蔑することもなければ激怒することも無かった。むしろ同族とは言え、子を作ることに恐怖は無いかと気遣った。
栞乂は身体と同様器が大きい。
だからこそ、絹楠は栞乂を深く愛していられた。
安心して傍にいられた。
――――本当に好きなら、離れてはいけないと思うの。
絹楠はそう言った。
「勿論、奇形児が生まれてしまうかもしれない。でも、私も前の夫も平気だったわ。だって本当に愛した人との子供だもの。周りがどう見ようと愛しいに決まってるじゃない」
それに、感情というものはとにかく厄介だ。
何処かで決着をつけなければ、永遠に引きずらなければならないこともある。
このままあの二人を放置してはいけない。
そう思ったから彼女は始祖に頼んだのだ。
「しかしそれが栞喃にとって良いことか、お前にも分からぬであろう」
「そうね。でも、人生ってそんなものじゃないかしら?」
辛かろうが楽しかろうが、良いも悪いも、後々の自分が思うものよ。
絹楠は目を細め、遠い目をした。
「私は、辛いことばかりだった人間の世界で過ごした二年間を悪いものだとは思っていないわ」
栞喃にだけは、人間の世界を好きでいてもらいたい。
最愛の妻に、栞乂はぐにゃりと顔を歪めた。苦虫を大量に噛み潰したようなその表情に、絹楠はくすりと笑みをこぼした。
「……結局のところ、お前は自己中心的だ」
けれど、それが悪い方向に向かったことは、不思議と無い。
栞乂の苦々しい言葉に、絹楠は笑って胸を張った。
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