弐拾捌





「……で、栞乂に会う前に一つ訊いておきたいんだけど」


 栞喃の尻尾触ったって、本当?
 絹楠は歩きながら夏侯淵を肩越しに振り返った。

 何処で聞いたのか。
 夏侯淵は怪訝な顔をしつつ、事実なので首肯した。
 すると絹楠は呆れたように「馬っ鹿ねえ」と吐息を漏らした。


「何だ……尻尾を触ることは悪いのか?」


 こめかみを押さえ、彼女は正面を向く。顔にかかる枝葉を押しやった。


「狗族にとって、異性に尻尾や耳を触らせるのはあなたと結婚しますよっていう一種の意思表示でもあるのよ」

「だからそれが――――て、は?」


 結婚?
 夏侯淵の思考が止まった。
 足を止めて固まる彼を振り返らずに、絹楠はそのまま前を行く。


「栞喃は、あんたが余所者だからって何も言わずにいたんだろうけれど、触ったんなら本来そのまま婚約するのが狗族の流れなのよ。事故だったんなら、それに応じた行動も取らないといけない。それをしていないんだったら、あなた達は――――聞いてる?」


 そこでようやっと絹楠が振り返った。
 が、思考と共に歩みを止めてしまった夏侯淵は遙か後方で立ち尽くしていて。
 溜息も出ない程に、呆れ果てた。


「あのねえ……今からその慣習の口上を教えてあげるってのに、何頭止めてるのよ。っていうかせめて足ぐらい動かしてちょうだい」


 そんな声も、彼には聞こえていなかった。
 夏侯淵の頭の中では、絹楠の言葉が反響し、頭で一杯になっていた。
 あの時、ただ邪魔だったから握っただけだ。それだけだったのに、狗族にとってはそんな大きな意味を持っていたとは思いも寄らなかった。

 けども、だから栞喃はあんなにも狼狽していたのかと納得もする。

 自分は何てことを……いや、だがあれは仕方がなかった。本当に、仕方がなかったのだ。だって狗族の習わしなど全く知らなかったし、その時はまだ栞喃にそんな感情は抱いていなかった、と思う。

 夏侯淵は頭を抱えて冷や汗を垂らした。

 これはどうするべきなのだろうか?
 下手なことを言って狗族の矜持を傷つけたくはないが、このままでは栞喃が――――。


「――――いてっ!!」


 思考がどんどん深みにはまっていく夏侯淵に待ったをかけたのは小さな木の実であった。
 額に激突したそれは跳ね上がって近くの茂みに落下した。

 投げたのは勿論絹楠だ。
 彼女は顔がようやっと見える場所まで離れていて、振りかぶった姿でこちらを睨んでいた。


「考えるのは、後にして!! 今のは不用意に話を切り出した私に非があると思うけど!」

「す、すまない……」


 夏侯淵は額を撫でて――――血が出ていた――――絹楠を追いかけた。
 前に立つと彼女は腕組みして不機嫌そうに唇を曲げた。そして、「やっぱり止めた」と背を向け歩き出した。

 何が良いのか、問いかけても彼女は知らないと一点張りで教えてはくれなかった。本当に機嫌を損ねてしまったようだ。
 夏侯淵は後頭部を掻きながら絹楠に何度かそれを問うた。……やはり、答えてはくれなかったが。



‡‡‡




 屈強な大男が眼前に現れた。

 夏侯淵はその巨躯から放たれる重苦しい殺気に竦みそうになる足を殴りつけ己を叱咤した。

 大男――――栞乂は戦斧を肩に担ぎ、真っ直ぐに夏侯淵を見据える。圧倒的な存在感はかつてシ水関で対峙した董卓配下華雄以上だ。
 そんな彼に、那崑の倅のような狼狽も戸惑いも無かった。
 絹楠を一瞥しても、さして興味が無さそうだった。

 夫婦だと絹楠から聞いていたのは、嘘か?
 いや、那崑の倅のあの態度を思うにとてもそうだとは思えない。

 夏侯淵は自らの前に立つ絹楠の背中を見つめた。

 絹楠は栞乂を仰ぎ――――。


「久し振りね。相変わらず良い男過ぎて私、発狂しちゃいそうだわ」


 平気で空気を壊す。

 栞乂は目を伏せ吐息を漏らした。眉間を指で挟んだ。


「……こんな時にお前のその言葉は、疲れる」

「そんなこと言わないで。愛してるから」

「……」

「え、無視? ……もしかして愛の鞭なの? 私喜んで受け入れるわ!」

「お前は黙っていろ。話が進まん」


 ……まさかとは思うのだが。
 栞乂の反応が薄かったのは絹楠を刺激しないようにしていたからなのかもしれない。
 辟易したように絹楠を見やる栞乂を眺め、自分はここに何をしに来たんだったかと思考に逃げかけた。

 それが出来なかったのは、栞乂が戦斧を夏侯淵に向けてきたからである。
 はっと気を引き締めて身構えると、栞乂は目を細めた。


「ここに戻ってくると言うことは、そのまま死を意味する。お前とてそれが分からぬ筈もあるまいに、何故戻ってきた」


 夏侯淵は少しばかり顎を引いた。


「奇異な少年に、栞喃が処刑されると聞いた。彼女の無事を、この目で確かめたいんだ」

「……奇異な少年?」


 夏侯淵に詰め寄る栞乂を絹楠が阻む。


「……絹楠」

「始祖様よ。この状況も、始祖様が私の願いを聞き届けて下さったからなの」

「あれが?」


 直後、舌打ち。
 忌々しそうに顔を歪める栞乂に、絹楠はそっと声をかける。


「私は母親として栞喃をあのままにしておきたくないの。私は、あの二年間嫌なことしかなかったけれど、人間の世界も大好きになってしまったわ。それは決して許されないことだけれど、あの子に私の愛した世界を嫌いになって欲しくはない」


 だから、今は私の好きにさせてちょうだい。
 夏侯淵はぎょっとした。

 今、絹楠は母親と言った。

――――それで、彼の頭の中で繋がった。

 絹楠は那崑の倅の言う通り、死人だ。
 栞喃の母親である彼女は小さい頃に亡くなった。
 それがどうしてここに実体を持って立っているのかは、彼女の言う『始祖様』にある。

 分の会ったあの子供がその『始祖様』だと彼らの間でそうなっているように思える。

 あの子供が、始祖――――つまりは狗族の祖、狡ということになる。
 真(まこと)か否かは、まだ分からないが。


「……栞喃なら、すぐそこの川にいる。用を済ませたらば疾(と)く去(い)ね」


 栞乂は苦しげな顔だった。
 ぎりりと歯軋りしながら栞喃のいる方向を指差し、夏侯淵を行き場の無い怒りに燃える銀の瞳で睨んでくる。

 さっさと行けと言わんばかりの形相に、夏侯淵は彼に頭を下げて駆け出した。

 絹楠は、ついては来なかった。



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