弐拾漆





 那鐘は信じられないものを見るかのような目でその人を凝視した。
 今、彼は茂みに身を潜めている。苦手な狩りに単身出ていたところ、不審な人影を見つけたのであった。

 気配を殺して側に寄った彼は、その片方の女性に驚愕した。

 ぴんと立った犬の耳、ゆらゆらと揺らめく髪と同じ漆黒の尻尾。
 露出の多い活発な身形(みなり)に、那鐘の想い人にそっくりな面立ち。

――――とうの昔に亡くなっている筈の人物が、そこにいた。

 しかももう一人は人間の男だ。
 一年近い前に一人の人間が入ってきたばかりだというのに……どうしてまた人間が入ってきているのだ。
 まさか谷の近くに人間が住み着いた?

 那鐘は弓に矢を番えてごくりと唾を飲み込んだ。
 女性はともかく、人間はこの場で殺しておかなければならぬ。
 今まで鳥すらしとめたことの無い己の腕では不安が強いけれどここで那鐘が殺さなければ、村に近付かないとも限らないのだ。村には狗族の子供や老人もいる。

 ここで、俺が……!
 弓を構えたて那鐘は片目を閉じた。
 狙いを定めて――――。


 放つ!!


「あっ」


 存外なことに矢は真っ直ぐ人間へと向かった。
 けれど彼が気付いた瞬間目にも留まらぬ速さで現れた何かに弾かれてしまった。

 女性の短剣だ。
 彼女は村最強と名高い栞乂の次に強い武人だった。
 飛来する矢など簡単に弾けてしまう。

 女性は人間を庇うように立ち、こちらを睨み据えた。


「出ておいで、那崑(なこん)の倅(せがれ)」


 ……ああ、呼び方まで。
 くらりと眩暈がした。
 女性はもう一度、自分を呼ぶ。

 それにふらりと立ち上がれば、女性はふっと口角を弛めるのだ。


「大きくなったわね、昔は私の腰までしか無かったのに」

「……どう、して、」

「ん?」

「どうしてあなたがここにいるんですかっ。あなたは十年以上前に死んだ。死に顔だって、火葬だって、村の者全員が見ています。あなたが――――絹楠さんがここにいる筈がない!」


 人間が眉根を寄せて絹楠を見やる。

 けれども絹楠は肩をすくめて笑みを苦笑に変えるのみ。


「でも、私はここにいるわ。元々この谷はそういったモノが出やすいじゃない。怪奇現象も多い。死者(わたし)が出たって何の不思議も無い。ただ狗族には見えないだけで」

「……っそれは、確かにそうですが! だからって死者が肉体を持って現れて、しかも卑しい人間を引き連れてくるなんておかしいでしょう!?」


 思わず声を荒げてしまう。

 それでも、絹楠は笑みを崩さない。


「そうね。皆に怒られてしまうでしょう。……でもね、私結構自分本位だから。だから邪魔をしないでね」


 絹楠は、困惑しながら口を開こうとする人間の肩を叩くと、そのまま那鐘に構わずに歩き出してしまう。

 二人の歩き出した方向には村がある。

 那鐘が慌てて再び矢を番えて人間の背に向ける。


「……待って下さい!! 絹楠さ――――」


 直後である。
 顔の脇を何かが通過した。
 つんと頬に痛み。指を這わせれば、ぱっくりと割れていた。


「絹楠さん……!」


 疑問は沢山ある。
 けれど、存在よりも何よりも一番気になるのはどうして人間を谷に連れ込んだのか、ただそのことである。

 人間は卑しい。決して狗族が交わるべき存在ではないと、小さな頃から教えられている。
 絹楠とてそうだっただろうに、何故?

 栞喃も人間を匿っていた。その罪で三ヶ月程前まで岩窟牢にいた。
 栞喃と言い、絹楠と言い――――どうして二人揃って人間に関わる?
 卑しい存在に構う必要が何処にあるというのか、那鐘は絹楠の正気を疑った。裏切られたような気がした。

 絹楠は那鐘に言葉をかけることは無かった。
 人間を急かして早足に道を行く。

 那鐘は舌打ちして茂みに飛び込んだ。


「栞乂さんに報せないと……!!」


 だが信じてくれるだろうか。
 絹楠がいるなど、彼女が人間を連れてきたなどと。

 しかしそれでも彼らより早くこのことを報せなければ、村が混乱する。

 自分が止められるものなら止めたい。
 けれど栞喃にすら敵わない自分に彼女を止められる筈もない。

 那鐘は歯噛みしながら、森の中を疾駆した。


 絹楠がそれを横目に見ているとも知らずに――――。



‡‡‡




「……良いのか?」


 夏侯淵が問いかけると、女性は大きく頷いた。


「良いのよ。那崑の倅の武は、栞喃にも及ばない。そんな奴が私達を止められる筈もないじゃない。それに彼が栞乂に報せに行くのは都合が良いわ。先に栞乂が出てきたら私が話を付けやすい」


 那鐘の姿はもう米粒程だ。
 このまま栞乂に報せれば、栞乂だけでなく狗族の若衆まで追い出そうと出てくるのではなかろうか。

 那崑の倅と絹楠の言うあの男が女性のことを随分と前に死んだのだと言った。とても信じられる話ではないが、もしそれが確かなら、栞乂が怪しんで総勢で押し掛けると言う選択を取らないとも限らない。
 もしそうなった時、彼女はどうするつもりなのだろう。夏侯淵は短剣のみで満足に戦える武器を所持していない。

 胡乱げに彼女を見つめていると、女性は苦笑を浮かべた。


「栞乂なら、危険で怪しいことには村の人間は絶対に巻き込まないわよ。自分だけで被害を抑えようとする人だから」


 だから、あなたは栞喃に会うことだけを考えていなさい。
 女性は力強く言った。

 未だに彼女を信じ切れていない夏侯淵は、彼女の言葉に曖昧な返事を返すしかしなかった。



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