弐拾陸





「――――だから、あの時私の言う通り近道を通れば良かったのよ」


 後ろで女性が呆れたように言った。

 ……この光景は幻ではないだろうか。

 どうしてこんな光景が広がっている。
 有り得ない。

 ……有り得ない。

 そんな、

 そんな――――、



 辺り一帯が雪景色だなどと!!



 これでは――――ではないか。



‡‡‡




 狗族の谷を出た直後にいた森に到着した夏侯淵は、まず己が倒れていた場所に向かった。
 あの時は遮二無二走り回っていたから、そこに行くまでには少々時間がかかった。
 幸い栞喃が遭遇した老婆の姿は何処にも無く、人間の姿も見当たらなかった。

――――そして、問題はそこからだ。
 ここからどのように行けば谷に戻れるのか。谷を出た記憶が一切無いものだから道が分からない。

 栞喃も同じだった筈だが、彼女はここでどうやって谷に戻ったのだろうか?
 その場で腕組みして思案に没頭していると、不意に背後から何かに突進された。


「どーんっ!!」

「うわぁ!?」


 大きな声と共に背中を押された夏侯淵は前のめりに倒れそうになるのを何とか堪えた。

 がばりと振り返ればそこには栞喃に良く似た女性がくすくすと笑っている。

 また、この女……!
 自分の後を追いかけてきたのか――――先日出会ったあの女性だった。
 夏侯淵は眉尻をつり上げて彼女を睨んだ。

 今は如何にして狗族の谷に行くか、その方法を見つけなければならない。彼女に構っている暇は全く無い。
 彼女に背を向けて場所を変えようとすると、行く手を阻むように回り込まれた。


「ちょっと待って。本当に真面目に話を聞いてちょうだい」

「不真面目なのはどっちだ」

「あれは栞乂の名前が出ちゃったから仕方ない、の……っ!」

「言葉の途中で鼻を押さえて顔を背けるな。退け」


 状況が状況なだけに、今のこの女性の一挙一動に苛立ってしまう。自分は早く谷に生きたいのだ。手遅れになる前に。

 女性はぐいっと鼻の下を腕で拭って大きく頷いた。


「……良し、鼻血出そうだったけどもう大丈夫。あなたを谷に連れてってあげる」

「鼻血出てるぞ」

「うっそ!!」


 またそこを拭うと彼女はひいっと悲鳴を上げる。夏侯淵に背中を向ける。
 人名だけで、そこまで興奮出来ると言うこの女性、やはり思考がおかしい。

 夏侯淵は後頭部を掻いて身体を反転させた。

 が、それよりも早くがしっと右の手首を掴まれて強い力で後ろに引かれた。あまりの強さに頓狂(とんきょう)な声が出てしまった。


「貴様! 何を――――」

「谷に行くならそっちじゃなくて、こっち! 私だってそんなには時間無いんだから、さっさと来なさいってば!!」

「時間? ――――ってちょっと待て! 手を離せ!! 鼻血が付いている手で掴んでくるな!!」

「鼻から出ようが尻から出ようが血は血でしょうがーっ!!」

「貴様は本当に女か!!」

「一児の母よ!! 良いから! これ以上こっちで時間ばかり浪費してると、本当に大変なことになるわよ!」


 やけに彼女は時間を気にする。
 彼女自身に時間が無い。
 こちらで時間を無駄にしてはいけない。
 それらは一体どういうことなのか。

 夏侯淵は身体の向きを変えて女性に続きつつ――――全力で抵抗したが彼女の手は全く外れなかった――――眉根を寄せた。

 彼の疑問の眼差しなど気付かずに、女性はひたに山道を駆け上がっていく。迷う素振りなど微塵も無かった。本当に、知っているのだろうか。
 女性をこのまま信じても良いのか……猜疑(さいぎ)が夏侯淵の中で首を擡(もた)げた。

 けれど、《変化》はすぐに訪れる。


「え――――」


 景色が、変わったのだ。

 真っ白に。



‡‡‡




「どういう、ことだ……!」


 数歩歩いて愕然とした夏侯淵は女性を振り返った。

 女性はほら見ろと言わんばかりに片眉を上げて唇を曲げている。夏侯淵の問いに真っ白な吐息を漏らして腕を組んだ。


「私達狗族のいる谷は、始祖様――――狡が作り上げた全く別の世界なの」


 こちらとあちらでは時の流れが全然違うのだと、彼女は告げた。
 狗族の世界と、夏侯淵の世界の間には常に摩擦が生じる。それは前者の時に大きな影響を与え、結果流れが不規則に歪んでしまうのだ。

 前者五百年が後者一年ということも起こり得る。むしろ双方の時間には大きな差が当たり前だ。
 狗族が外に出ることを許されないのはその為でもある。


「今はまだ、こっちは一年と経っていない。始祖様が栞喃の為に道を開いて、摩擦を抑えて下さっているから。でもそれでもこちらとそちらじゃ時の流れの違いははっきりと違うのよ。だから私はあなたに近道を与えてあげた。結局無駄になってしまったんだけど」


 女性は夏侯淵を見据え、「どうする?」と。

 えっと声を漏らせば、


「栞喃があなたに何の挨拶もせずに戻ったのはこの摩擦に気が付いたからよ。あの子には世界と時の向こうに家族や友達を置いていく覚悟は無かった。一年ではないけれど、それに近い月日は経ってしまったから、今彼女が生きているかも分からないわ。それでも、捜しに行くつもり?」


 どくり。
 嫌な、言葉だ。
 生きているか分からないなんて。

 手遅れかもしれない――――この一面の銀世界を見た時、確かに夏侯淵の胸中をよぎった。
 そう思いたくなくて蓋をした。

 けれども、それが現実だ。

 夏侯淵はぎりっと歯軋りした。

 ……いいや、まだだ。
 まだ、まだ『分からない』。
 ならばまだ彼女は生きているかもしれないじゃないか。
――――無事を、確かめたい。
 彼女に、直接会って言葉を聞きたい。


「行く」


 夏侯淵は短く答えた。
 来た以上は、すぐには戻りたくない。
 栞喃の姿を確認するまでは。

 それに、女性は小さく頷いた。



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