弐拾伍





『曹操にはわたし達から言っておくわ。だから夏侯淵はもう一度狗族の村に行って』


 あの少年が消えた後、関羽はそう言ってきた。

 無論誰も少年の言葉を信じている訳ではない。
 けれども定かでない確証も無い為どうにも胸が騒いだ。
 どうしても、少年の言葉が本当なのではないかと思えてしまうのだ。信用出来ない程に怪しいとは、頭では分かっているのに。

 夏侯淵は馬ではなく、徒歩であの森へ向かう。
 急いで、と思うものの無理をさせた馬はもう走れない。夏侯淵一人の足で向かうしか無いのだ。

 ここから約一月、それまでに栞喃が処刑されなければ良いのだが――――。
 歯噛みしながら大股に一度通った街道を進んでいると、前方を一人の女性が横切った。その姿に、愕然として足が止まる。

 ぴんと立ったあれは、犬の耳ではないだろうか?
 それに加えてあの横顔――――。

 夏侯淵は声を張り上げた。


「栞喃!!」


 髪は腰まで流れる程に長い。
 けれどその横顔は栞喃そのものと言って良い。
 栞喃は夏侯淵に気付くこと無く左手の小山に駆け込んだ。

 夏侯淵は彼女を追いかけて未踏の道に入った。

 栞喃の足取りは早かった。蒼々(そうそう)と生い茂る獣道の中を手足を引っかけることも無く……しかし時折夏侯淵が追いつくのを待ってくれた。

 夏侯淵は何度も何度も栞喃を呼んだ。
 されども彼女は、待ちはするのに呼び掛けには全く応じない。

 もしや……あれは栞喃ではない?
 いや、そんな筈はないだろう。あれは栞喃だ。この世界にいる狗族と言えば、栞喃しかいないのだから。
 栞喃に追いついて問い質したい。どうしてここにいるのか、狗族の谷には戻らなかったのか……否、何よりも無事をちゃんと確認したかった。


「待て! 栞喃!! 何処に行くつもりなんだ!!」


 応(いら)えなど返されない。
 段々と苛立ってきて、夏侯淵の声は怒声と変わる。

 それでも栞喃は立ち止まらなかった。

 どうして立ち止まらない?
 どうしてオレから逃げる!?


「栞喃!!」


 直後である。


「この辺かしらね」


 唐突に足を止めた栞喃が振り返った。



‡‡‡




 違う。

 違う。

 違う……!

 彼女は栞喃ではなかった。
 栞喃に似ている、全くの別人。

 夏侯淵と朗笑を浮かべて向かい合う女性は、紅唇を開いた。


「ごめんなさいね。あなたのことをちょっと、からかってみたの」


 でも驚いたわ。本気で怒ってしまうんだもの。
 首を傾けて苦笑に変える女性の黒い尻尾がふさりと揺れた。ゆらりゆらりと左右に振れる。


「それだけあの子のこと、本気なのかしらね。……ああ、そんなに睨まないで。あなたを案内したらそのまま消えるから。始祖様とはそういう約束だもの」


 栞喃に良く似た女性は、不意に己の背後を振り返ってその向こうを指差した。


「谷に行くなら、ここを真っ直ぐ行くと良いわ。二日ばかり、諦めずに歩いていたら辿り着くから」


 夏侯淵は眉根を寄せた。
 あの少年と言い女性と言い……発言も存在も何もかもが怪しい。
 少年の言葉に押されてここにいる夏侯淵ではあるけれど、さすがに彼女の言葉までは少しも鵜呑みには出来なかった。

 女性を睨みつけていると、相手は焦れたように唇を曲げた。腕組みして銀の瞳を半分に据わらせる。


「栞喃が心配じゃないの? あの子のこと聞いたんでしょう?」

「聞いた……が、信用はしていない」

「まあ、それもそうね。でも、信用していなくても谷に行こうとしていたわよね。一応、気になりはするんでしょう?」


 言い当てられて口を噤む。
 女性は前髪を掻き上げて夏侯淵を見据える。

 銀の瞳に貫かれるかのような感覚に襲われた。
 責め立てるような意思はそこには無いのに、どうしてか後ろめたさを感じてしまう。その瞳から逃げたくなってしまう。――――自分は、この女性の瞳に気圧されている。

 一瞬退がりそうになった足を殴りつけ、夏侯淵はその視線を受け止めた。冷や汗が、頬を伝った。

 すると彼女は意外そうに目を丸くした。


「栞乂以外は皆逃げてしまうのに。あなたは逃げないのね」

「栞乂? って、確か栞喃の父親、じゃ……」

「――――そう、私の自慢の旦那様!」


 「きゃ! 言っちゃった!」とか頬を押さえて恥じらう女性から、一瞬にして鋭利で重厚な眼光が消え失せた。

 夏侯淵は口をぽかんと開けて、甘えたような声音と変わってしまった女性を凝視した。


「本当にねー、栞乂ってば格好良いのよ。一目惚れって奴? 一目見て雷が落ちてきたって言うか、でも自分よりも強い人じゃないと結婚するのは絶対に嫌だから、戦ってみたらこれが強くって強くって! それからもうぞっこん、っていうかもう視界に栞乂がいるってだけで胸が高鳴っちゃってー!」

「……」


 と言うことは、女性は栞喃の母親である。
 確かに栞喃に良く似ているけれど、栞喃には母親は小さい頃に亡くなったと聞いていた。
 それに彼女の見た目では、とても栞喃程の娘がいるようには全く思えない。

 この女性は、何者だ?


「……あ、ごめんなさい。悪い癖だわ。心の声が出ちゃって、引かないでね」

「……」

「ちょっとちょっと無言で山を下りようとしないでよ! しょうがないじゃない!! 昔っから興奮すると本音を一気に言っちゃうんだもの!」

「何処に興奮する要素があった」

「え、栞乂って言葉聞くだけでも十分興奮出来るんだけど」

「……」


 栞喃を捜しに行こう。
 こんな不可解な奴に時間を浪費してしまったなんて、一生の不覚だ。
 舌打ちして走り出せば女性が慌てたように夏侯淵に制止の声をかけた。


「ちょっと! こっちが近道なんだってば!!」


 信用出来るかと、心の中で言い返す――――。



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