弐拾肆





 彼女が突如谷に現れたのは、森に実り多い季節の快晴の日だった。
 栞乂が一人狩りに出ている時に彼女は村から離れた、奥に吹き抜けのある洞窟から現れた。

 緩やかに波打つ黒い髪を腰の辺りまで垂らし、こんがりと焼けた肌を露出させた闊達(かったつ)な彼女は栞乂を見るなりきょとんと首を傾けた。
 そして、誰なのかと問いかけるのだ。

 だがそれは栞乂とて同じこと。

 彼女の誰何(すいか)には答えずに警戒から得物を構えると、好戦的な性格の彼女は嬉々と武器を手にした。二年振りに同族の男とやり合うことが嬉しいなんて宣(のたま)い――――すぐに惨敗する。

 その直後の反応も、栞乂の予想の斜め上を行っていた。


『あなた、とても強いのね! 私強い人は好きよ』


 怪我をしたにも関わらず、邪気の無い笑顔を浮かべて『今ので惚れた!!』と迫り出した時にはさしもの栞乂も若干ならず引いたものだ。
 一応純血の狗族だからと、当時の長に面会させて話を聞くことにしたのだが――――。


 彼女の言っていることが全く分からない。


 唯一分かったのは、彼女は誤って人間の世界に出てしまい、二年間谷に帰る方法を探して人間から隠れつつ放浪していたということくらい。
 されど奇異なることに、二年前に行方不明になった者は一人としていない。
 その上、彼女の名前――――絹楠という名前も、長とて知らぬと言うのだ。

 彼女の方も長はその人ではなかったと言い張って。
 栞乂にとっては非常に面倒な話し合いであった。
 ……長にとっては違うようではあるが。

 狗族の長という者は一般の狗族達の知らぬ、一族の深い部分の秘密を口伝される。故に彼女について彼自身の中である程度の推測は立ったらしかった。

 長は彼女を己の家で預かることとし、狗族の者達には何も知らせぬまま受け入れた。
 当然狗族一同納得がいかない。
 そこで、彼女はけろりと言ってのけたのだ。


『じゃあ、栞乂を倒したら私を認めてよ』


 栞乂は男衆の中では随一の武人であるし、彼女は惨敗している。
 そう簡単に勝てるワケもない。
 それでも敢えてそう持ち出したのだった。

 狗族全体に認められる為に、彼女はそれから毎日のように栞乂に付きまとって手合わせを強要してきた。
 栞乂も仕方なしに暇を見つけてそれを受けていたが、繰り返される『手合わせして!』の合間、ままに『結婚して!』と言われるのは正直迷惑だった。眠っている時に自分の尻尾を掴ませようとしてきたことだってある。酒に弱いことを知れば酔わせて既成事実を作ろうとしたこともある。

 彼女は手合わせに勝つことが目的なのか、それとも栞乂に結婚をせがむのが目的なのか――――最初こそ良く分からなかった。

 けれども次第にどうして彼女が栞乂に手合わせや求婚に躍起になってじっとしないのか、漠然と分かってきた。

 彼女は寂しいのだ。
 話を聞く限り、様子を見る限り、この村には知人も友人も、親すらいないようだ。
 そんな状況下でいながら天真爛漫快活でいられることの方がおかしい。
 栞乂に惚れたフリをして、狗族に認められるよう努力して、本心を紛らわせようとしていたのだ。

 そんな彼女が、不意にぽつりと漏らしたのは、栞乂が彼女に惹かれ始めた頃だったろうか。
 何十回目か数えるのも億劫な手合わせに負けた彼女は、唐突に涙を流した。限界だ、と栞乂に抱きついて吐露(とろ)した。


『この村に私の同じ狗族はいない。私は独りぼっちなのよ』


 時代も何もかも、自分を置いて行ってしまったのだと。

 その時、栞乂には彼女の言葉の意味が分からなかった。戸惑いながら、彼女が落ち着くまで背中を撫で続けるのみだった。



 当主から彼女について真実を聞かされたのは、彼女を娶(めと)った三年後、栞乂が次期族長に選ばれた日の夜であった。

 この狗族の住む谷と、人間の世界の違い。
 狗族の祖先、狡によって歪められ、時に変化する時の流れ。
 人との血が流れながらに、生粋の人とは違う狗族の身体。

 彼女は、そのことを自ずと知ったのだろう。

 長は言った。
 絹楠は、狗族の谷の中での、千年も昔の狗族の長の孫娘の名であると。口伝では確かに彼女は忽然と姿を消した。
 人間の世界ではたった二年。
 けれどもその間にこちらでは千年の時が流れてしまったのだ。

 故に、彼女は戻ってきても孤独だった訳だ。

 数年間、彼女は己の中に不安も寂寥(せきりょう)もひた隠して過ごしてきた。
 誰にも言えず、ただただ溜め込んで、吐き出せずに心の中で血を流し続けていた。
 大袈裟ではない。

 己がどのようにして帰ったのかは分からないが、家に帰って子を孕んだ彼女を強く強く抱き締めた。
 謝りはしなかった。否、出来なかった。
 それよりも、何よりも彼女が自分の時代に戻ってきたことを感謝した。

 その時の、号泣しだした彼女のあられも無い顔と言ったら、今でも面白おかしくて――――誰よりも可愛らしくて美しくて、今でもはっきりと覚えている。



 これからもきっと、永久に忘れることは無い。



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