弐拾参
何もそこまでしなくても良いだろうに。
それが、蘭煕の感想である。
《半年》もの間行方不明だった栞喃は、谷に帰ってきて早々に父親に牢屋へと入れられた。
栞喃が、この谷に紛れ込んだ人間を匿(かくま)っていたのである。
狗族長の一人娘でありながら卑しき人間を匿ったことは厳しく罰せられるべきと、栞喃自らもその処罰を受け入れた。
以来数ヶ月、栞喃は少しの食料の水だけで、暗く肌寒い岩窟の牢屋の中で暮らしている。そのように彼女本人が強いているのだ。栞乂がそれだけはと止めても彼女は聞きはしなかった。
ままに蘭煕が食料を差し入れに行くが、栞喃の衰弱した姿を見るのは心が痛む。けれども様子を見なければとても心配である。
今日も今日とて、彼女は岩窟牢へ向かう。
「栞喃? 起きてるかしら」
「ん……ああ、起きてるよ。また来たのかい、蘭煕」
「うん。今日はね、お菓子を作ってきたの。お腹の調子が良かったらだけど……」
このところ、頓(とみ)に胃腸が弱くなっている彼女はほとんど柔らかな物しか口に出来ない。元々母親が胃腸の弱い人物で、それが栞喃にも遺伝しているようだとは村の物は皆知っていることだ。
それを気遣って栞乂も肉などを十分に煮込んでだ物を与える。こうして蘭煕や那鐘が食料を持って岩窟牢に立ち寄ることを黙認しているし、厳しい仕打ちをするものの、やはり父親なのである。そして、狗族もそれを許容している。
未だ微かに湯気の立つそれを差し出すと、栞喃は苦々しく笑い首を傾けた。
「今日は良いかな……ちょっと、気持ち悪くてさ」
「そう……。絹楠さんが残した薬の作り方、栞乂さんに訊ねて作ってこようか?」
「いや、酷くなったら頼むから、今は良いや」
苦笑混じりに言って柵に歩み寄った。
その青白いかんばせに胸が締め付けられるかのような苦痛を感じた。
出て欲しいのに、栞喃もそれを拒む上栞乂もまだ許すことは出来ないと首を横に振る。
栞乂だって心配だろうに、大事なところでは族長としての態度で決める。蘭煕達のことを見逃しても、栞喃への罰を弛めることはしないでいた。
「それじゃあ、一旦戻るわね。またすぐにここに来るから、体調が悪くなったらちゃんと言ってね? 我慢は絶対に駄目だからね?」
「分かってるって。もう何回も聞いてるよ、それ」
はは、と笑声を漏らして栞喃はひらりと片手を振る。
しかしふと、蘭煕から視線を逸らして遠いところを見るのだ。
こういったことはままにあった。匿っていた人間に想いを馳(は)せているのかとも思ったのだけれど、どうも違うようだ。
「栞喃、どうしたの?」
いつもそう問いかけるけれど、彼女は毎回嘯いてはぐらかしてしまう。
今回もそうだろうと思っていたけれども、栞喃は蘭煕を捉え、ふっと切なげに銀の瞳を揺らした。
「……あのさ、蘭煕」
「なあに?」
「狗族(あたしら)と人間(あいつら)は、交わっちゃいけなかったんだ。あたしがあいつに会わなければ、あんなことを知らずに済んだんだ」
蘭煕は首を傾けた。
それは、どういう意味なのか。
問いかけようとした蘭煕はしかし、栞喃が彼女から目を離したのに出かけた言葉を呑み込んだ。
「栞喃……?」
「……ごめん。何でもない」
栞喃は、取り繕うような笑顔を浮かべて見せた。
‡‡‡
栞喃が岩窟牢に入れられる前、栞乂は娘に問いかけた。
――――何を知ったのか、と。
彼女は亡き妻に良く似た儚げな笑顔で、答えた。
それは栞乂にとって、栞喃にだけは永久に知られたくなかったことだった。
知れば必然と妻のことも話してやらねばならぬ故、栞乂はそれが心苦しかった。
「母親のことが気になるだろう。岩窟牢に入る前に知りたいか、栞喃」
栞喃の答えは否であった。
知りたかったけど、今はもう知りたくないと、彼女は苦笑混じりに漏らした。
好奇心の旺盛な彼女が真実を拒絶する程に、事実は衝撃的だったのだ。
ああ、やはり。
が落胆にも似た嘆きを抱く。
絶対に回避すべき事態が、彼女には起こっていたのだ。
彼女が人間に慕情を抱く、なんて。
栞喃とて己の身分を弁えているのだから、惹かれることは無いだろうとたかを括っていたのが間違いだったのか。
やはりあの場で先に殺しておくべきだったのか。
栞喃が岩窟牢に入り、自ら扉を閉める様を見つめ、栞乂は一人、己(おの)が判断が如何に甘く残酷であるものだったか思い知らされた。
慚愧(ざんき)に歯噛みしつつ、牢の扉に鍵をかける――――。
『栞乂殿、いざ尋常に勝負っ!』
不意に、脳裏で懐かしい声がしたような気がした。
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