弐拾弐





「――――良く、生きて戻った。夏侯淵」


 夏侯淵が全ての経緯を包み隠さず話した後、曹操は開口一番そう言った。

 夏侯淵は平伏したまま頬を赤くする。
 冷たい面持ちの曹操もまた、自分の生存を喜んでくれていることが、とても嬉しかった。

 しかし……。


「だが、夏侯淵。お前のしたことには処罰を下さねばならぬ。分かるな?」

「……はい」


 それも、覚悟の上だ。どんな処罰でも受ける。
 夏侯淵は唇を引き結んで曹操をしっかりと見据えた。

 曹操は冷淡な表情を変えること無く、夏侯淵への処罰を告げる。


「今後は関羽の下に就け。以後関羽より武勲を上げようと、関羽以上に階級が上がることは無い」


 えっとなって顎を落とした。
 それはあまりにも甘い処罰である。
 その程度で済まされないことをしたというのに、そんなに寛容で良いのかと、曹操を凝視した。

 それに、曹操はふっと口角を弛める。


「私にとっての益(えき)を考えた結果だ」


 夏侯淵は全身が熱くなった。
 同時に、多少の不満もある。どうして、そんなに甘い処罰で己を許すのか、承伏しかねた。

 話は終わりだと言わんばかりに謁見の間を足早に立ち去っていく曹操の背中をいつまでも見つめていた夏侯淵は、ふと夏侯惇に肩を叩かれて顔を上げた。
 夏侯惇は、嬉しそうに笑っていた。

 それが後ろめたくて、俯いてしまう。
 もっと責めてくれて良かったのだ。
 なのに、皆甘すぎる。
 関羽の命も夏侯惇の命も、決して軽くなどないと言うのに――――。


「兄者……すまなかった」


 絞り出すように呟いた謝罪に、夏侯惇は笑みを消す。


「それは、俺に言うべきことではないだろう。関羽に言え」

「分かってる。だが、オレは、兄者にも……」

「お前が戻ってきた、俺にはそれだけで良い」


 後悔した訳ではない。
 けれども、辛くなかった訳でもない。
 そう語って夏侯淵を立たせた《兄》に、夏侯淵はそこが城の中であることも構わず泣き出した。静かに、静かに泣いた。

――――責められないことは、一種の罰だ。
 ふわりと真綿で包まれるかのように温かく受け入れられることが、辛い。

 自分は関羽を殺そうとした。長年兄と慕った夏侯惇も殺そうとした。
 だのに。
 だのに!
 こんなにも、自分の矮小さを思い知らされる。
 夏侯淵は床に拳を叩きつけ、啜り泣いた。


 けども。


「夏侯淵!!」


 狼狽した風情の関羽が呼吸荒く飛び込んできた。一体何処を走ってきたのか、汗だくだ。


「どうした、関羽」

「そ、それが、栞喃が、栞喃が!」


 荒い息の中途切れ途切れに彼女は告げた。



 栞喃が故郷へ帰ってしまったことを。



‡‡‡




 夏侯淵は城を飛び出した。馬を借りて兌州を出た。
 後ろには同様に急ぐ関羽と夏侯惇。栞喃を引き留められなかったことを気に病んでついて来た関羽に、夏侯惇も同行すると申し出たのだった。

 栞喃はきっと、自分達が倒れていた森に行くだろう。
 だがそこまでは馬でも一日では行けない。
 だからせめて、届く距離までに追いつけられたら――――!

 夏侯淵の願いは、果たして叶えられなかった。

 その前に馬の体力が限界になってしまったのだ。栞喃を捜すことに躍起になっていた彼は、馬の体力を忘れていた。
 馬の疲労の程を見るに、城に帰ることも難しい。

 仕方なしに、近くの村に世話になる他無かった。
 勿論家に泊めてもらう訳にも行かず、村の片隅の道具小屋にて一夜を過ごすこととした。

 暗い中で焚いた火を灯りとしつつ、それを囲うように三人は座った。


「すまない……」

「良いのよ、夏侯淵。引き留められなかったわたしも悪いんだから。明日一旦城に戻って曹操に相談しましょう。恩人にちゃんとお礼を言いたいって言えば、多少の外出くらい許してくれるわ」


 そう言って励ましてくる関羽に、夏侯淵は緩くかぶりを振って否とする。


「曹操様はきっとお許し下さらない。それに、仮に許しを得たとしてもオレは栞喃以外の狗族に見つかって殺されかけたところを逃げてきたんだ。今オレがまた谷に向かえば、オレだけじゃなく栞喃も危うい。きっと栞喃がオレを匿っていたことはバレているだろうし……オレが谷に入ったら、オレと一緒にあいつも殺されかねない」

「そんな……同じ一族なのに」

「あいつは狗族の長の娘だ。だからこそ、厳格な処罰が与えられる。狗族の谷では、人間はここでの猫族に当たるんだ」


 栞乂の自分に向ける侮蔑を思い出し、関羽を見やる。

 関羽はしゅんと眦を下げ――――耳をぴんと立てた。身を乗り出して夏侯淵を凝視してくる。


「夏侯淵あなた今……『猫族』って言わなかった?」

「え? ――――あ」


 口を押さえ、瞠目する。
 今のは無意識だった。自然に十三支でなく猫族という単語が出たのだ。
 それがすでに、少し前からそうだったとは、この時彼には思いも及ばない。

 関羽は嬉しそうに口角を弛めた。


「……嬉しい。夏侯淵。栞喃と一緒にいて、変わったのね」


 後頭部を掻いて、夏侯淵はやおら首肯した。
 きっかけは彼女だ。
 だから、そのことも含めて栞喃にはちゃんと礼を言いたい。

 今ではそれも難しいことではあるが――――。

 夏侯淵が溜息をついて空を仰ごうと顔を上げたその刹那。


「!」


 彼は立ち上がって左手に向き直って身構えた。

 関羽達がえっとなって彼の視線を追うと、ぎょっと目を剥く。


「な……っ」


 少年である。
 顔を血で真っ赤に染めた、怪奇なる少年。

 この小屋の中、夏侯淵達三人以外に人はいない。誰かが入ってきた様子も無かった。村が山賊に襲われている訳でもない。

 では、この血塗れの少年は何だ?
 何故額に穴が開いていて生きている?
 そう思うも何となく既視感を覚えながら、夏侯淵は問いかけた。


「何者だ」

「我を覚えておらぬか」


 少年はくすくすと笑った。自らの額を指差し「お前はこれに覚えは無いのか」と。
 少年の額に穴――――覚えなど全く無い。ある筈がない。

 彼を睨みつけると、彼は肩をすくめた。


「お前達に付けられた傷だと言うに。おかげで我のこの傷は、治るまで一年はかかってしまうのだぞ」

「……何を言っている? オレは貴様になんて会ったことは――――」

「そうか。ならばあの四つ足の獣の姿に変われば良いのか?」


 四つ足?
 ぐぐっと眉間に皺を寄せた夏侯淵は、次の瞬間目を見開いた。

 ……いや、まさか。
 そんな筈はない。
 だって、もしそうだとすれば――――。

 この少年は、あの時の四つ足の化け物だと言うことではないか!

 この少年は、夏侯淵の表情に満足したのか、笑みを深めて大きく頷いた。


「良い反応だ。ようやく分かったようだな」

「あ、有り得ないだろう! あの化け物がお前だと!?」

「だが人間の身体で額に穴を開け、それでいてこの量の血を流して生きていることこそ、有り得ぬことと我は思うが」


 そう言われては、言葉も返せない。
 言い負かされたような気がして歯噛みすると、少年は「ああ、そんなことはどうでも良いのだ」と片手を振った。


「一つだけ、教えてやろう。あの狗族の娘は、恐らくは処刑されるぞ」


 愕然。


「な……にを、」

「なに、昔似たような娘を見たことがあるのだ。その娘は存在を消された。」


 信じるか否かはお前次第だが。

 戦慄した。
 少年の言葉を信じるかと問われれば、信じられない。
 いきなり、怪しい少年に言われたところでそうかと納得も受け入れることも難しいではないか。

 暫し少年を睨み続けていると、彼はくすくすと笑ってこちらに背を向けた。


「我の用はそれだけだ」


 一瞬――――否、僅か半瞬であろうか。



 少年は闇に溶け込むように消えた。



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